綾波が猫になってから時は流れ、一週間が過ぎた。
彼女が行方不明になってからは学校では病欠扱いとなっているようで、綾波と同じシンジとアスカのクラスは騒ぎになっていた。
シンジとアスカは綾波が行方不明になったことについて詳しいことは知られておらず、困惑していた。
しかし、綾波のことが気になって仕方がないので綾波の消息について誰か詳しいことを知っている者は居ないかとNERVの中で親しい上司に聞いてみた。
親密とはいえないが、自分の近くに居る葛城ミサトに聞いてみたが、駄目だった。
他にオペレーターを担当している日向マコト、青葉シゲル、伊吹マヤと聞いてみたが答えは「知らない」の一言だった。
そして、探し回って辿り着いたのは。
「…このことは誰にも言わないでくれよ?知っているのは諜報部の人間とりっちゃんだけだ。」
諜報部に属する人間、加持リョウジだ。
加持から綾波が行方不明になった経緯を全て話してもらった。
もちろん、このことは全て自分の胸にしまっておいてくれということを条件でシンジはそれを受け入れた。
全ての原因は赤木博士にあると聞いたときは驚いたが、もっと驚いたのが、綾波が猫になったかもしれないということだった。
このことを聞いたシンジは一瞬訳がわからなかった。
更に詳しく聞いてみると綾波は赤木博士によって調合された薬を普段飲んでいる薬と間違えて誤って飲んだことで猫になったということだ。
これに眩暈を感じたが、あの赤木博士のことだ、怪しげな薬を幾度か作った経験があるらしく、彼女ならありうるのだと。
俄かに信じがたいことだがシンジは事実を何とか受け入れた。
それからは学校の帰りに綾波の捜索に加わったが、未だに成果は上げられず行方は不明のままだった。
夜遅くまで捜索しているので体が疲弊していて、十分な休息と睡眠がとれていないので学校でも居眠りしがちだった。
「はぁ…。」
疲れたようにシンジはため息をついた。
とそこに後ろから大声で話しかけられた。
「あんたねぇ!さっきからため息ばっかりつかないでよ!シンジ、最近おかしいわよ!学校終わってからもすぐには帰ってこないし、帰ってくるのはいつも夜遅くじゃない!一体何をしているの!?」
アスカだった。
疲弊した身体にアスカの声が大きく響いてシンジはげんなりとした。
アスカの顔にはいささか不機嫌だった。
無理もないだろう、最近では綾波が行方不明であることに居ても経っても居られないシンジは学校が終わってからも、夜遅くまで探しに出かけているのだから。
帰ってくるのは大抵、夜の八時から九時までの間なのだ。
もちろん、料理もつくっていない。
初めて捜索に加わった日にはシンジの代わりにミサトが自ら作るといって奮って料理を作ったのだ。
その料理は何かというと言うまでもなくあの恐怖の料理、ミサトカレーなのだ。
これを始めて食したアスカは口から魂が抜けかかり、三途の川が見えたと語った。
それからはというものアスカの中でシンジの株が急上昇し、自分の命が危ういということでシンジに料理を作ってもらいたいと考えていた。
しかし、シンジは綾波の捜索に忙しく料理を作る暇すらなかったので、暫くインスタント食品やレトルト食品で凌いでいた。
アスカもシンジの料理が食えないことで暫く我慢していたが限界だった。
「悪いけど…放っておいてくれない?疲れているんだ。」
「あんたねぇ!もういい加減にしなさいよ!今まで聞かなかったけど今日こそ聞くわよ!何しているの!?」
「何や?夫婦喧嘩かいな?他所やってぇな。五月蝿くてかなわへん。…まったく昼間っからお熱いの〜。」
「ふっ…夫婦?ち、違うわよ!ちょっとシンジもなんか言いなさいよ!」
トウジの夫婦喧嘩発言にアスカは顔を赤らめて言い返した。
「……言い返す余力すらないよ。眠い。」
シンジは疲れたような声で言った。













EVANGERION
Another Story
漆黒の騎士と白衣の天使

―第十六話―
― When a bell sounds, magic of Cinderella is removed ―
― シンデレラの魔法は鐘の音が鳴ると解ける ―













同じ時間でショウは昼休み、屋上で昼食を食っていた。
普段はシンジと綾波と三人で食事をするのだが、今は一緒に食事をすることができない。
理由はある。
「レイ。もういいぞ。…窮屈だっただろ?」
「にゃぁ…。(…暑い。)」
ショウの腰から猫の声が聞こえたと思ったら、ショウの肩にぶら提げていた小さ目のボストンバックの形をしたショルダーバックから子猫の顔がひょっこり出てきた。
家の中に一匹(?)置くわけにもいかなかったので、学校に連れてきたのだ。
勿論、原則的に動物の持ち込みは禁止なのだが、鞄の中から猫の声が聞こえてくると怪しまれるので前もってショウが魔法を掛けておいた。
音や声、気配を完全に絶つ呪文を掛けておいてあるのだ。
これで綾波の声はショウのみにしか聞こえない。
また、対象の者を限定して他者に聞こえるようにすることも可能だ。
この魔法を対策として講じておいたおかげで誰一人として今まで気づかずに学校に連れることができたのだ。
「悪かったな。こんな狭い中に押し込めてしまって、窮屈な上に暑かっただろ?」
「なぁ〜ぅ。(…構わないわ。)」
「しっかし、猫になってからもう一週間だというのに未だに元に戻る気配すらないな。」
「……みぃ。(…ええ。)」
「まぁ、あれこれ考えてもしょうがない。食事にしようか?」
綾波はコクリと可愛らしく首を縦に振った。
先ほどぶら提げていた鞄の中からショウが食べる昼食の弁当と綾波の昼食が入ったプラスチックのボトルを取り出した。
プラスチックのボトルの蓋を開けると中からにんじんと南瓜(かぼちゃ)を練って、スティック状にしたものを取り出した。
しかも、味は蜂蜜味だ。
美味しく食べてもらおうと思ってショウが自ら綾波の為に作ったのだ。
始めは蜂蜜をスティックに塗って固まらせようと思ったが、口の中に入れると溶けて粘々して食べにくいと思ったのでこれは断念した。
そこで思いついたのがにんじんと南瓜を練る際に蜂蜜を少量混ぜて作ったのだ。
主婦の知恵袋ならぬ栄養管理士の知恵袋だった。
料理は趣味の一つだったのでこういった発想は得意なのだ。
ショウは野菜スティックを綾波の手に渡した。
彼女はそれを肉球のした猫の手で持ちながらぽりぽりと齧って食べた。
「美味しいか?」
「ポリポリ……ゴクリ…みゃぁ。(…美味しいわ。)」
「そっか。スティック状にして作ったのは正解だったな。」
美味しそうにスティックを食べる綾波に思わず表情が綻ぶ。
ショウも続いて食事を取った。

食事を終えたショウと綾波はこれからどうしようか話をしていた。
「一度NERVに戻って、その薬を作った赤木博士とやらのところに戻ってみてはどうだ?」
「にゃうん?(…どうして?)」
「このままでは埒が明かない。…だから猫になる薬を作った原因である赤木博士のところにいったん戻って、元に戻る薬を調合してもらえば解決すんじゃないか?」
「………。」
「?どうした?」
綾波が沈黙している事にどうしたのかとショウは聞いてみた。
「…にぁ〜ぅ。(…戻りたくない。)」
綾波が戻りたくないと拒否の意を表してきたことにショウは驚いた。
「どうしてだ?」
「なぁ〜ぉ。(赤木博士は実験を好む人…。戻ったら何をされるかわからない。)」
「…………成程ね。」
これにどうしたものかとショウは仰向けになって曇り一つない青空を見つめながら考え込んだ。
自分で解除薬を調合してもいいが、猫になった薬は既にNERVに持ち去られているので、成分が調べられないので調合は不可能。
綾波自らが赤木博士の下へと赴いて元に戻る薬を調合してもらう…しかし、これを綾波は拒否したので却下。
…となれば残るのは。
とそこにショウはむくりと仰向けにした身体を起こした。
「自分がNERVに自ら忍び込んで、薬を調合した記録の書類を盗み出して、解除薬を俺が調合するしかない。」
「にゃぁう。(…無理よ。あそこはNERV専用のIDカードが必要。それがない限りは入れない仕組みよ。)」
これにショウは不敵な笑みを浮かべて声を漏らした。
「問題ないよ。そもそも、NERVのセキュリティは完璧じゃない。いや、完璧なセキュリティなんてものは存在しないものなんだ。完璧なセキュリティといわれているほど必ずどこかには見落としってものがある。…つまり、どこかに抜け道があるってことだ。」
「…みぃ。(出来るの?)」
「自慢じゃないがNERVの構図は全て頭の中に記憶してある。抜け道ぐらい簡単にいけるさ。…ま、尤もNERVにうまく潜入したとしてもそこからは監視カメラやらNERV職員に見つかるかもしれないから厳しいかもしれないけどね。」
「にゃぁ。(…そう。)」
「決行は今日の夜だ。その間、諜報部は捜索で殆どのものがいないから、チャンスだ。それに大半の職員は帰宅する時間帯だ、狙うならそこだろうな。」
猫になってから暫く様子見で変化が起こる気配すら全くないので、猫になった原因である赤木リツコの執務室に潜入して、何かないか調べようと判断したのだ。
再び空を見上げると曇り一つない満天の蒼い空が見えた。

所変わって、同時刻、NERV本部・赤木リツコの執務室
赤木リツコ博士女史は綾波の捜索に精を出していたが、未だに見つかることはなく時間だけがただ過ぎていった。
今、リツコの研究室兼執務室で彼女は口からエクトプラズらしきもの…もとい魂が出掛かっていた。
目には生気は宿っておらず、虚ろで夢遊症寸前の患者に等しい状態であった。
赤木リツコのデスクの上には口から涎が流れていて、大半がそれによって満たされていた。
「………終わったわ。ウフフフフフ………私の命も後僅かかしら…。」
もはや廃人状態だった。
失踪から一週間仕事もまともに手付かずの状態の上、疲労を回復してくれる貴重な睡眠時間をも削ってまで捜索に費やしたので疲労困憊なのだ。
碇指令には綾波が失踪したという情報が届いていないので今まで命の危機を回避することが出来たが一週間も経っても尚まだ見つからないとなると流石に誤魔化しきれない。
諜報部も交代制で綾波の捜索を極秘で行っているのだが、それらしきは見つかっていない。
綾波が猫になった可能性が高いということで野良猫のみに限定し、第三東京市内の猫を保健所の職員用の服に変装してまでくまなく探したのだが駄目だった。
野良猫の捕獲を実行した日には何でも『野良猫を集団捕獲!?動物愛護団体が抗議の電話殺到!』などとでかいテロップが流れて大騒ぎになったが、変装をしたおかげもあって、正規の保健所の職員の一覧データベースからそれらしき人物は特定されることはなく、有耶無耶になったとかなかったとか。
それほど切羽詰っているということであった。
そのときだった、執務室の空圧式のスライドドアが開かれたのは。
ドアから姿を現したのはNERVの副指令・冬月コウゾウだった。
「赤木君…憔悴しているようだが…大丈夫かね?」
「…え?へあ!?…し、失礼しました!副指令!どうしてここに?」
「…いや、なに、ちょっと嫌な噂を小耳に挟んだものでな。最近、諜報部が活発に動き回っているが、何かあったのか問い詰めてみたが、結局口を割ってもらえなかったから、自分で調べてみれば…赤木君の名前が浮かんできたのでな。……何があったのか教えてくれるか?」
真剣で厳しい表情を浮かべる冬月にリツコは言葉を失い、顔を背けるしか出来なかった。
「………。」
「黙っていては判らんぞ?もう一度言う、何があったのかね?」
更に厳しい表情で問い詰める冬月にリツコはとうとう観念して事のあらましを説明した。
「実は………。」
説明すること数十分して、説明を聞いていた冬月は聞くたびに蒼ざめていた顔も次第に赤みを帯びて震えた。
「何たる馬鹿なことを!」
冬月は鬼の如く、憤怒の表情で叫んだ
「管理を怠ってしまった君の失態だ!全く、実験も大概にした前!処分は逃れないつもりだと思え!」
説教されるごとにリツコは小さく縮こまってしまった。
しかも、正座で説教されていた。
「………申し訳ありません。」
延々と説教されて顔面蒼白になった彼女の声には覇気がなく、か細い声で答えるしか出来なくなっていた。
「あの…出来ればこのことは碇指令には御内密に…。」
「当然だ。こんなことが知れてしまったら碇は暴走して総職員に綾波君の捜索指令を出しかねない。」
流石に長年の付き合いをしている冬月は賢明な判断を下した。
碇指令は息子のシンジよりシンジと同年代の綾波に異常なほどに拘っているので失踪したなどと知れたら躍起になって探しかねない。
「しかし、綾波君は何処に言ってしまったのやら…このままでは不味い。」
「……あの。」
「うん?」
「私が作りましたあの薬はまだ実験段階なので…良くてで三日で、悪ければ一週間しか持たない時間制限の薬なんです。」
「!ということは・・・?」
「…恐らく今日、陽が暮れるときには元に戻るはずです。…多分。」
「……………。」
暫く、二人の間に沈痛な空気が流れ、気まずい雰囲気で何も言えずじまいに終わった。

カツン…カツン…カツン…
何本ものパイプが繋がられた薄暗い通路の中、鉄の足場に歩む度に音が静寂な空間に反響する。
明かりは足元を照らすための蛍光灯の非常灯で足場を照らすだけだった。
それ以外に目に入るもの耳に入るものは空調の音が聞こえる他にいくつかの閉ざされた別のルートへと通じるのであろう扉のみだった。
ショウはいつもどおり姿を晒さないために漆黒のコートを身に纏っていた。
もちろん、フードも被っている。
そのコートの胸には黒で彩られたコートには似つかわしくないものがあった。
白の毛並みにひょっこりと生えた小さな耳と紅の瞳をした子猫が顔だけを出していた。
それは綾波だった。
「にぃー(ここは何処?)」
「NERV本部へと通じるルートのひとつだ。今、俺達は変電室に向かっている。あそこなら人の目に触れることなく潜入しやすいからだ。監視カメラの死角が多くあるそこからうまく進入できるんだ。」
ショウはNERV職員の専用IDカードも使わずに隠しルート一本だけで容易くここまで進入できたのだ。
しかも、ここにはどういうわけか監視カメラ一つも見当たらないのだ。
恐らくここは上層部の人間にしか知られていない正規外のルートなのであろう。
暫く歩いていると、行き止まりだった。
否、目の前に一つの床を照らす非常灯に反射して鈍い銀の鉄特有の重さを連想させる輝きを放っている扉があった。
その横にはスリット式の開錠ロックではなく、少しばかり旧型の数字入力式のパス開錠ロックだった。
五桁の数字を入力すると赤で照らされた『Close』が緑の『Open』に切り替わった。
それと同時にガシャンとロックが開錠される音が響いた。
扉は半分に別れ、大きく開かれた。
その扉の先をショウと綾波は歩んでいった。
そして、再び扉は閉ざされた。

職員の目を巧く掻い潜り、監視カメラの死角に身を隠しつつ、気づかれることなく容易くもリツコの執務室に潜入に成功した。
ショウは早速、デスクの上に置かれているデスクトップ形のパソコンに電源を入れて、パスワードを解除し、変身薬に関するレポートを検索した。
数分ほどして、パスワードでロックされているファイルを発見した。
がしかし、ショウにはパスワードは事前に調べておいたので、容易く解除できた…と思いきや。
「ん?…何だ、これ?」
ディスプレイに『このファイルを開くにはCD-ROMが必要です。』とショウの目の前に表示された。
どうやら、このファイルを開くには必要とされるアプリケーションの入っているCD-ROMを必要とするらしい。
「ちっ、CD-ROMが必要なのかよ。何処に置かれているんだ?」
デスクの上を改めて探すとそれらしきものは見つからなかった。
「くそ…このままのろのろしていたら直に帰ってくるぞ…。レイ。」
ショウはデスクの上に身を丸めているレイに声をかけるとそれに応じて耳がピコリと動いた。
「なぁう…(何?)」
「どうも、このファイルを開くにはCD-ROMが必要のようなんだが…どこに置かれているか知らないか?」
「にゃあん…(知らないわ…。)」
「そうか…ここまで来て手詰まりか…らしくないミスをしてしまったな俺も…。」
ふっと自嘲気味にため息を吐くショウに綾波が一声鳴いた。
「にゃ〜(…CD-ROMは普段白衣のポケットに閉まっているわ。)」
「え?…肌身離さず持っているって事か?」
その問いに綾波はコクンと縦に頷いた。
どうやら、赤木博士は重要なデータが詰め込まれているディスクは肌身離さず持っているようだ。
となればすれ違いざまに掠め取るしかない……って無理だ!
そうなってしまえば、堂々と姿を現して奪うしかないじゃないか、そんなことになってしまえば彼女のとる行動は目に見えている。
直接会ってしまえば、彼女は勿論NERV職員を呼び込んでしまう可能性が高くなる事は間違いないのだ。
そうなってしまえば脱出し難くなってしまう。
尤も、気配や声、姿をも一時的に消し去る魔法を使えば苦もなく楽に脱出できるのだが、暫くは魔法を使う事は控えているのだ。
どうしても回避できない場合や状況のみにだけ使うと決めているのだ。
「…にゃ〜ぉ(どうするの?)」
「…う〜ん。」
少しほど頭を悩ませている所に一つの気配が近づいているのを察知した。
「(…!?まずい!戻ってきた!)」
――ちっ!俺としたことが他の事に気をとられていて気配を察知するのに遅れてしまった!
感知できるほどに気配察知領域を大きく踏み込んでいるのに気づくのに遅れてしまったのだ。
すぐさま、表示されているウィンドウを閉じて、シャットダウンさせた。
次に身を隠さなければならないほどに彼女は部屋のドアの手前までに迫っていた。
デスクの上に身を屈ませている綾波を胸の中に仕舞うと電光石火の如く、大きく跳躍し、天井に張り付き、気配を殺した。
その姿はまさに忍者そのものだった。
と同時にスライドドアが開かれた。
ドアから現れたのは白衣を身に纏う女性科学者…紛れもなく赤木リツコ本人だった。
身を隠すのに間に合ったのか彼女は自分に気づいていない。
何事もなかったように彼女はこれから仕事につくのかデスクに向かって歩き、椅子にもたれるようにして座った。
そして、パソコンの電源を入れる…と思いきや手を止めた。
嫌な予感が背筋を走ったのをショウは感じた。
――――気づかれたか!?
そう思わずにはいられないショウだった。

リツコは妙な雰囲気を感じた。
自分の執務室に足を踏み入れた瞬間、少しほど雰囲気が違うことに気がついていた。
まず、自分以外の臭いが微かに残っていること、デスクの上に注意しなければ気がつかない程に残された猫らしき数本の毛…そして、なによりこの部屋全体の雰囲気の違いを確固としたもの…それはパソコンの本体ドライブが残り熱を帯びていたことだった。
自分がこの執務室を離れたのは一時間ほど前だった。
自分もパソコンを使ってはいたが一時間も長く熱を帯びているはずがない。
――私以外の誰かがこの執務室に踏み入れた。
リツコはそう直感を受けていた。
しかし、ここに来る途中で誰ともすれ違うことはなかった。
自分の通る通路は殆ど通ることない通路のはず、あるとすればミサトや冬月副指令、碇指令、限られた諜報員しかないはず。
加持君ならやりかねないかもしれない…でも彼は自分が求めているものは自分のパソコンに自ら探る事はしないはずだから。
それこそが愚かしい行動であることは彼自身が知っているし、なにより彼は慎重な男であるし、証拠は一切残さないはず。
他に考えられるとすればノーバディ…彼自身だ。
これはあくまで可能性の話ではあるが、そう考えられずにはいられなかった。
そのときだった。
――にゃあぅ
一瞬、猫のような鳴き声が微かに耳に入った。
リツコはそれを聞き逃さず、後ろを振り向いた!
「そこにいるのは…誰なの!?」

さっきからパソコンの前に座りながら、電源を入れない様子におかしいと感じ、気づかれたかもしれないという恐れを抱いていた。
すぐに電源を切らなかった、自分の失態である事は十二分に理解していた。
気配を察知する余裕さえあれば、証拠残さずにすることが出来たかもしれないなんて事は考えない。
過ぎてしまったことを悩んでも仕方がないからだ。
今はこの場をどう切り抜けるかだ。
いつしか緊迫した空気に緊張しながらも脱出する手立てを何通りも考慮する。
どううまくかわすかどう対処するかを何パターンも頭の中もシミュレーションを繰り返した。
勿論気配も絶えず、殺している。
しかし、ここで最悪の結果が起こった。
「にゃあぅ(大丈夫?)」
ショウの胸の中に潜ませていた綾波が声を漏らしてしまった。
これに背筋を毛虫が張ったようにびくりと身体を強張らせてしまった。
彼女も耳に入ったのかピクリと反応を示した。
―――気づかれた!
自分は気配を殺せても彼女は殺せないのだ。
判っていた事なのだが、気づかれてしまった今、行動を実行する他に余裕などショウにはなかった。
彼女は既にこちらを振り向こうとしているところだった。
無音で壁を蹴り、綾波を丁寧に抱えながら落としてしまわぬよう守り、リツコの上を舞うように越えて、彼女の背後に無音で着地した。
永く生きてきたショウには諜報・間者共にもう達人どころか超人の域をも超えるほどの技術を身に付けていた。
不老を得てから800年か程して、忍びが発展した時代の世界を渡り、忍者の基礎を学び、無音でかつ気配を殺す技術を会得している。
うまく背後に潜ったおかげで姿そのものを見られることはなかった。
しかし、油断は出来ない。
彼女はまたも後ろを振り向いた。
しかし、それも難なくかわす。
未だに姿そのものを見られてはいない。
リツコは緊張を解くことなく、気配を探っている。
しかし、このままではジリ貧だ。
「(脱出口はあのスライドドア一つと天井に付けられた排気口のみだけだ…。)」
脱出するには入ってきたあのドアと天井に付けられた排気口のみだ。
排気口は中学生ぐらいならやっと潜れそうなほどの広さだ。しかし、勿論ネジが固定されているので破壊しない限りは脱出不可能だった。
「(…となれば事情を話して説明?無理だろ。)」
ショウはそれもありかもとも考えていた。
しかし、説明したところで納得できるとは思えなかった。
とそこに不意に彼女は自分に話すように口を動かした。
こっちの姿は当然見られていない。
「そこにいるんでしょう?…どうして姿を見せたくないのかは聞かないでおくことにしてあげるわ。目的は何?」
自分に問いかけている事はわかった。しかし、問いかけられたとはいえどうすべきか少し躊躇した。
暫く、静寂が辺りを包んだ。
やがて、意を決したのかショウは口を開いた。
「―――俺の目的は…ある解除薬を調合するためのデータが欲しいだけ…今はそれ以外に用はありませんよ。」
その言葉にリツコはピクッと身体を強張らせた。
「解除薬…ですって?」
こっちを見ないということを配慮してくれているのか振り向かないリツコはそのまま答えた。
「……ええ、どうも人間であるはずのある女の子がどうも突然に猫になってしまったと聞いたもので。」
「……どうしてあの子が猫だってわかったのかしら?」
この問いに答えるべきかどうかショウは迷った。
「信じてはもらえないとは思いでしょうが…俺は動物の言葉を理解することが出来るんです。」
「なっ…?まさか?」
「どう受け止めるかは貴女の自由です。…今は解除薬を調合するためのデータが欲しいのです。貴女が持っているCD-ROMを渡してくれれば助かるのですが。」
「………調合する必要はないかもしれないわ。」
この言葉にショウは意味をうまく呑み込めず首を傾げた。
「それは時間限定の薬なのよ。試作品もあって、時間を短く制限した薬なのよ。」
「え?…でも一週間経っても戻らないぞ?」
「ええ…短くて三日、四日程度で長ければ一週間なのよ」
この言葉にあっけに取られたショウに異変を感じた。
胸の中に納まっていた綾波が突然にうめき始めたのだ。
「どうした!?何処が苦しい!?」
見てみれば綾波は身体を震わしている。
突然に起こったことなので"薬の副作用か!?"とも思ってしまった。
「大丈夫だと思うわ。元の姿に戻ろうとしているのよ。…苦痛が伴うのが難点だけど。」
気がつけば、リツコはこっちを見ていた。
「…どういう調合したんだ?いや、それよりも元に戻れるのか!?」
声を荒げて睨むようにしてリツコを見る。
「ええ、私の論理が正しければ戻るはずよ。」
「…ったく碌なものをつくらねぇ科学者だな。」
軽蔑するように吐き棄てるようにショウが言った。
これにリツコは微笑を浮かべた。
「お褒めの言葉として受け取っておくわ。」
「………皮肉の通じない女だ。このままでいいのか?苦痛を和らげる薬とかはないのか?」
「残念ながらそれは無理よ。」
「何故だ?」
「元に戻ろうとしている段階で別の薬を飲んでしまったら効果が中和されて、それが邪魔になって戻れなくなるからよ。」
「見守るしか他にないって事か…。」
ふぅとため息をついて苦しむ綾波に目を向ける。
デスクの側にある椅子の上にそっと優しく乗せた。
未だに苦しみは治まらないらしく震えている。
「どれぐらいで戻れるんだ?」
「そうね、これならあと五・六分ってとこかしら。」
暫くの間、二人は見守り続けた。
―――そして、ついに変化が訪れた。
次第に綾波の身体が大きくなっていくのだ。
脈打つように大きくなり、体毛が薄くなり、手足が伸びる。
やがて、ぶわあっと身体が大きくなった。
「あああーーーーーーーっ!」
綾波は苦痛な叫び声を上げ、元の姿へと戻った。
疲労が噴霧したのか、気を失った。
呼吸は荒いが大丈夫のようだ……しかし。
「……は…裸のまま。(汗)」
「……ちゅ、中途半端に戻っている。(遠い目)」
そうなのだ、綾波は布一枚すら着ていない、生まれたての赤ん坊同然に素っ裸だったのだ。
病的なまでに白い肌が汗に濡れて艶かしくも見えた。
呼吸も荒いので誰かが見られたらヤバイ図であった。
また、それだけではなく普通の人には見慣れぬものがあった。
白のフワフワした猫耳が、尻尾がまだ残っていた。
猫耳フェチの人なら喜んで涙を流すだろう。しかし、ショウはそんな性癖は持ち合わせていなかった。
こんなところを見られたら不味いのでとりあえずリツコガ自分の着ていた白衣を綾波に着せて、猫耳を、尻尾をどう隠すか悪戦奮闘していた。
「こんなところを碇指令に知れたら、どうするか……。」
「考えたくもないな…。」
げんなりする二人がそこにあった。
暫く経っても元に戻る気配すらなかった。
とりあえず、猫耳はカチューシャだということで誤魔化すことにするが、尻尾が問題だった。
「とりあえず俺はもう帰ります。後はお任せします。」
「ちょっと待ちなさい。」
扉の前まで歩を進めていたショウは足を止めた。
「何でしょう?」
肩越しにリツコを見る。
「どうして、貴方はここまで彼女を守ってくれるのかしら?赤の他人にどうしてここまでするのか聞いてもいいかしら?」
「………………さぁな。」
「……まぁ、いいわ。」
答えをはぐらかされた事に少し眉をひそめたが、言いたくない事だということに納得した。
「とりあえずはレイを守ってくれたことにはお礼をいうわ。」
「大した事はしていませんよ。……礼を言う代わりに俺がここに来たことを黙ってくれるなら。」
「……ええ、いいわ。貴方に借りがあるなんて私も御免だもの。」
少し言葉に棘があるが、自分を匿ってくれる事にショウは心の中で感謝した。
「でも、私がレイから貴方のことを聞かないなんて事は約束出来ないわよ?」
「結構ですよ。そうなったらそうなったで姿を晦ましますから。」
さらりとリツコの言葉をかわした。
「…そう。残念だわ。「まずい!」…え?」
突然にショウが叫んだかと思いきやリツコは間抜けた声を出した。
「葛城ミサトだ!彼女がこっちに近づいている!」
「!?こっちに来てるどうしてわかるの!?それよりもなんですって!?ミサトが?」
ミサトの姿は見えてないのにどうして彼女が来ているのかがわかるのか怪訝に思ったが、頭を切り替えた。
このままでは猫耳状態の綾波を目撃されてしまうことに困惑していた。
「俺は隠れます!彼女を見えないようにその白衣で頭と尻尾を隠してください!」
そう言うとショウは先ほどと同じく大きく跳躍して天井の角に張り付いた。
リツコも慌てて綾波を白衣で覆い隠した。
次の瞬間、ミサトが入ってきた。
「やっほ〜!ちょっちお邪魔するわよ〜ん。」
「〜〜〜〜っ!……何か用かしら?」
ミサトが入ってきた瞬間、びくりと肩が跳ねたが落ち着き何でもなかったように取り繕った。
「ん〜?……なんか今日のリツコ変ね?何かあったの?」
目敏いミサトだ。リツコの微妙な変化に気がついた。
「そ、そうかしら?気のせいでしょ?」
動揺しながらもこれを誤魔化す。
「…そうやってあからさまにたじろいでいるのが怪しいんだけど?あら…?」
ふとしたときに椅子に座って白衣で覆い被られているものに目が入った。
上は隠しても下が見えている、足が出ているのだ。
「何よ、これ?」
ミサトは近づいて白衣を剥がそうとした。
次の瞬間、ショウは魔法の構成を編み出した。
「深海の闇夜に意識よ、身を委ねん、汝に安らぎを…睡眠(スリープ)!」
魔法を発動させた瞬間、ミサトは足がよろめいて倒れた。
「あ…ら?眠…い…。」
ミサトは豪快にいびきをかいて寝ていた。
何が起こったのかリツコには理解できなかった。
「な、何が起こったの?」
「とりあえず目を覚ましたら適当に誤魔化してください。俺は行きます。」
このまま長居しては説明を求められてしまうのですぐに退散した。
暫くの間、リツコの執務室にいびきが木霊した。
それからはどう誤魔化そうか、綾波の姿を戻そうか二つのことを考えながら、頭を悩ませていた。
数時間後、ミサトが目覚める頃には猫耳も尻尾も引っ込み、元の姿に戻れた。
同じくして、綾波も目覚めて更にはゲンドウが執務室に入ってきて、説明を求められてしまい、なんとかうまくかわして誤魔化すことが出来たが、うまく言い訳するのに寿命が縮む思いで、胃もストレスがピークに達したのか事が終えたときには倒れてしまい、ストレスによる胃潰瘍と睡眠不足で仕事を休む羽目になり、三日間の入院を余儀なくされた。
これに懲りて、暫くは実験は控えることになるという。

一方、ショウはというと誰の目に触れることなく監視カメラの死角を掻い潜って逃れる事ができた。
ショウのマンションに帰宅した頃には静かな部屋にただ独りポツンと立ち尽くしていた。
「静かだ。……あいつがいないと寂しいな。」
とそこにふとしたとき目に入ったのは小さな猫用のタオルケットを底に敷いた籠がベッドの側に置かれていた。
そこにいた小さな白の猫はもういなかった。
いつも寝るときはこの場所を好んで寝ていたのだった。
その姿が鮮明に瞼の裏に浮かぶ。
「………もう必要ないな。」
その声はどこか寂しげであった。
独りで猫専用の物を片付けた。
終えたときに一杯のアイスコーヒーを飲むとそれが一層冷たく感じた。






                         ……………To Be Continued