生誕と生殺に福音を

第八話
「欺瞞に満ちた世界」

◆――――ある二人の会話



「日常があるからこそ戦える。戻るべき場所、帰る場所があるから人は戦える」
「―――君も?」
「そうだね、――――もきっとそうだよ」
「そう・・・そうなのかもしれない」
「だから僕らは戦えるんだ」
「私の帰る場所は―――君の所」
「僕の帰る場所は――――のいる所だよ」
「・・・」
「どうしたの?」
「人は一人では生きていけないのね」
「そうだね」
「一人が寂しいのね」
「うん」





「一人で生きていると思うことは傲慢なのね」



◆――――第壱中学、2年A組



『碇シンジはロボットのパイロット』
とりあえず2年A組の中にその事実が広まった次の日、碇シンジは教室に姿を見せなかった。
代わりといえば失礼だが、綾波レイはこれまでと変わらず毎日姿を見せる。
一日が経ち。
二日が経ち。
三日が経つ
日に日に綾波レイの怪我も治っていって、顔の包帯は既に解かれた。
だが誰も綾波レイのエヴァの事を聴きに言ったり率先して話したりはしない。
事実が暴かれた初日に完全に無視したことが効いて、尋ねるだけ無駄だと皆が知っていた。
たまに挑戦者が現れて『綾波さん、今暇?』などとナンバの如き誘い方をするが何も言わず一瞥した後無視されて撃沈。
数人いた挑戦者はもう一人もいない。
『風邪!?』
『極秘任務!?』
『鈴原が何かやった!?』
『戦闘で借り出された?』
『逝った?』
色々な噂がクラスの中に飛び交う、そんな日が休日を挟んで五日ほど続いた。



◆――――ネルフ本部、エヴァ訓練場



学校に姿を見せなくなった碇シンジ。
色々と噂されていたが、その頃の当人はただ単純に工ヴァの訓練を行なっていた。
これまでは碇シンジの身一つでの対人訓練が殆どだったが、初号機の修理が完了して兵装も充実したので急ぎデータ取りを行っている。
空いた時間は少なくなり、今だ自分の事を弱いと自覚しているシンジは訓練が足らないと思ってエヴァでの訓練以外にも自主的に夜通し特訓していた。
ジオフロントの人工灯が夜を告げるときには動き続け、朝を告げると同時に自分の部屋で眠りに付く。
これまでは学校で休んでいたが、移動すら億劫に思う数日間は碇シンジを容易にサボらせた。
代わりにネルフに来たときより体力面は異常とも言える速度で向上しているが。
「シンジ君。中学生なんだから学校行かなきゃ駄目でしょ?」
「葛城さん・・・それで使徒に負けたら『学校行っていて訓練できませんでした』って言うつもりですか?」
「う・・・」
「時間が無いんでしょ?」
そんな会話が少し前に合った。





『おはようシンジ君、調子はどう?』
「慣れました悪くないです」
エントリープラグの中で青を基調としたプラグスーツを着たシンジはスピーカーから聞こえるリツコの声に対して少しぶっきらぼうに返す。
戦闘時の時に感じる強烈な高揚感は無いが、プラグ内は居るだけで暖かい感触を感じる。
LCLの温度が高いという物理的なことではなく”安心する場所”。
いつまでもそこに居たいような、ずっと留まりたいような、その場所で何もしないで過ごしたいような安堵感。
リツコの声がそれを阻害しているのは判っていたが、頭の理知的な部分が留まれない事を知っていたので碇シンジは声の調子を変えて返事をするしか出来ない。
リツコはその点については深く気にせずに続けた。
『エヴァの出現位置、非常用電源、兵装ビルの配置、回収スポット全部頭に入ってるわね』
「多分」
『ではもう一度おさらいするわ、非常用の蓄電池は精々五分しか稼動できないの。これがあたしたちの科学の限界ってわけ、お分かり?』
「はい」
『では昨日の続きインダクションモードはじめるわよ』
必要最低限の言葉に、肯定の返事。
短いやり取りを終えるとエントリープラグ内に映し出される映像に変化が起きた。
第三新東京市の映像と第三使徒ことサキエルの巨体。
立体映像に酷似したエントリープラグ内の虚像が碇シンジの前に現れる。
「目標をセンターに入れてスイッチオン」
碇シンジはこれまで何度か行なった操作を行い映像のサキエルに向かってパレットガンの銃弾を放つ。
弾道は上に向かい外れるとスピーカーからリツコの声が聞こえる。
『落ち着いて、目標をセンターに入れて』
「スイッチ」
今度は”狙って”撃つと、弾丸は一発も外れる事無くサキエルの体に叩き込まれてよろめかす。
碇シンジの目算で五十発ほど当たった所でサキエルは倒れて爆散した。
『次』
リツコの声に合わせて、また同じ光景が別の場所に映し出され碇シンジは同じようにパレットガンの弾を撃つ。
この時の彼は戦闘時に感じていた喜びを感じてはいなかった。
何故なら映像に映し出されるサキエルにはこちらを攻撃してくる意思が無い。
つまらなさを感じながら碇シンジはまた映像のサキエルを撃ち殺した。





「心音、脈拍、通常値とほぼ変わりありません、落ち着いてますね」
エヴァがいる訓練場の壁の一部、埋め込まれた硬化ガラスを挟んでデータを取る発令所のオペレータメンバー+αの中でマコトが報告をあげる。
硬化ガラスの向こう側では計測用のコードを体中に付けた初号機が銃弾の出ないパレットライフルを構え、誰もいない壁に向かって引き金を引く。
動かしているのはエントリープラグ内の碇シンジだが、これはプラグ内の映像を加工した訓練なので傍目から見ると見えない敵に向かって相手をしているようにも見える。
「心理グラフも安定、許容範囲内です」
「やはり戦闘時ほどの様変わりは見られないようですね」
今回はオペレータメンバーの中でシゲルが非番になっていて、マヤとマコトの声が後ろで事態を見守るリツコに向けられら。
「訓練は所詮訓練でしかないわ、むしろあの子がこの訓練をバーチャルだと自覚しているせいね。真剣さがない訳じゃないんだろうけど戦闘時と差があるのも問題だわ」
「敵がいないと調子が出ないって事ですか」
マコトはリツコの言葉を聞いて何となく第一次直上会戦の事を思い出す。
あの時の豹変振りに比べると落ち着いているのはいい事だが、俗に言う『火事場の馬鹿力』では不安材料にもなってしまう。
戦術的観点から見れば、訓練では現れず特定の状況でのみ出てくる力は切り札にもなるが弱点にもなってしまう。
何となく沈んだ空気が流れそうだったので、付け足すようにマヤがリツコに話しかけた。
「しかし、あんな事があったのによく乗る気になってくれましたねシンジ君」
「人の言うことにはおとなしく従う、それがあの子の蘇生術じゃないの?」
「戦闘時とは全然違いますよね・・・シンジ君」
その後ろで”戦闘時に全然人の言う事を聞かなかった”を大言したミサトが初号機を睨んでいた。
彼女に恋しているマコトはミサトが気を悪くしたのかと思って慌てて話題を変える。
もちろん手はエヴァの情報取得という仕事をしながら。
「そういえば赤木博士、黒白の球体まで再現しなくて良かったんですか?」
「まだ三点同時射撃は無理があるわ、まずはエヴァでの銃撃に慣れてもらう所からよ」
「そうですか」


『目標をセンターに入れてスイッチ』
スピーカーから碇シンジの声が聞こえて消えた。



◆――――ネルフ本部、葛城ミサトの場合



『作戦本部長葛城ミサト』
その肩書きどおり、ネルフの全戦力を知る事のできる地位にミサトはいる。
椅子に腰掛け机の上に並んだ用紙を捲って一瞥。

ペラリ

見る。

ペラリ

見る。

ペラリ

見る。

ペラリ

見る。

その中にはサキエルに破壊された射出口の修繕完了報告と、今後同じ事があった場合射出コースに特殊ベークライトを注入して対処する報告書もあった。
ジオフロントを覆う22層の装甲防御の隙間とも言える射出口。
まさか初戦でその穴をつかれるとは思ってもみなかったので、技術部は大忙しで作業に当たった。
結果、明日には特殊ベークライトの注入パイプ設置作業が全通路で終わる見通しになって、これからも同じ事があれば特殊ベークライトが通路を塞ぐ手筈になって準備万端と言えるが、それを見たミサトの表情は暗い。
エヴァの兵装。
二週間の間に飛躍的に伸びた碇シンジの戦闘技術。
役に立つかは不明だが第三新東京市に準備された戦略自衛隊の武器弾薬。
シンクロ率とATフィールド。
そして射出ロの改修作業。
全てが『葛城ミサト』を無視して進んでいく。
間違えてはいけないのは作戦本部長に出来る事は戦闘でも技術向上でもなく『作戦立案』に過ぎない。
だがミサトは自分自身の復讐のためにそれ以上を望む。
初めてのエヴァ対使徒の『第一次直上会戦』では何も出来なかった。
命令を下そうとすれば無視され、力づくで実行しようと思ったときには全てが終わっていた。
そして自分の命令直下に付くといえば反論する。


何もかもがミサトの思いとは反対に進んでいく。


ミサトは苛立っていた。
次こそは。
次こそは。
次こそは。
本来、使徒から人類を守る筈の役目を負った組織ネルフの作戦本部長は苛立ちながら不謹慎にもが来る事を待ちわびてもいた。
その時こそ自らの命令の元で碇シンジが使徒を倒す現実を夢見て。
肝心のパイロットとの連携が全然取れていない現実を忘れて。
ミサトはぼんやりと紙を見つめた。



◆――――第三新東京市、鈴原ナツミの場合



つい先日、退院したナツミは商店街を歩いていた。
父親と祖父は病み明けのナツミを心配してしばらく有給を取って家にいようとしたが、家の中の主婦を一手に引き受けている小学生はそれを由とはしない。
行動で『ウチは大丈夫や』を示すために、入院前と同じサイクルを繰り返す。
学校に行って、友達と遊んで、男衆三人と自分用のご飯を作る。
洗濯や家事で忙しいので朝食と昼食は各自に任せてあり、負担は極々限られている。
時々食事用の買出しを山のように行なって冷蔵庫を一杯にするナツミの日々。
辛いと感じた事も、母親が恋しいと思ったことも、働いて金銭を家に入れている訳でもない兄に対して『兄貴のアホウ! 』と思ったことは一度や二度では足りない。
「後でオトンに米買うてきてもらわなアカンな、男所帯はメシが無くなるのが早すぎや」
壊滅的に料理が駄目な三人の腹を満たしていたらいつの間にか頭の中身も主婦になってしまい、ナツミは自然に独り言を言っていた。
命が助かった事は単純に良かったと思っている。
巨大な化け物を見て怖かったのも本当。
でも生きていて安全な場所で買い物をしているとまた復活してくる感情がある。
クマのぬいぐるみもそれを癒すためにただ求めた。


寂しい


「オカン・・・何でウチの所に居てくれなかったんや?」
擦れそうな記憶のさらに億の中に確かに居る暖かい形。
母の残浮を思い出すと泣きそうになる気持ち。
それが”寂しい”と言う事。
「う・・・うう」
強気に振舞っても、いつも通りにやろうとしてもどこかが違う。
歩道の真ん中に立ち止まり、あふれ出そうな涙を必死で堪える小学二年生の鈴原ナツミ。
その”声”が前から後ろに通り過ぎたのはその時だった。
「生きているから哀しむ事ができる」
「そして喜ぶ事もできるわ」
「!?」
突然出てきた声に辺りを見渡すと、振り返った後ろの方に二人組みの姿が見えた。
ナツミ自身に話しかけたのではなく二人で話していたことがただ耳に届いた、それだけの事。
だが不思議とナツミの涙は引っ込んでいた。
その声に払拭された訳ではなく、何か興が削がれた気分になり泣く気が無くなってしまった。
「・・・そや、ウチは色々買わなアカン。オトンが腹空かせて待っとんのや!」
自分がやるべきことを思い出して、ナツミは再び歩き出した.
その脳裏に”学生服姿の黒と蒼の髪をした二人組み”はもう残っていない。
ただすれ違っただけなのだから。



◆――――ネルフ本部、訓練場



「いいか日今までお前には避けることを重視して教えてきた。だがお前は俺の攻撃を避けるどころか見当違いの反撃で何度も何度も気絶した。腰が高い、避ける速度が遅い、筋力そのものが弱い、問題点を探せないほうが難しいときている」
碇シンジの前で叱責するのは教官だった。
ニ週間以上前からその姿は訓練場で何度も見られる姿だが、今回はいつもと違い無手ではなく道具を持っている。
「だが俺の訓練のお陰でお前は避ける点についてのみ四分の一人前ぐらいには成長した、攻撃は素人以下だが今は忘れてやる、ありがたく思え」
「・・・」
「お前は長い鍛錬など積んでいない、『一撃必殺』は長く熟練した基本の果てに身につく奥義とも言える。お前は戦いの天才でも無い、だからこそ『必殺』などない。判るか」
「・・・はい」
「声が小さい!!」
「はい!!」
「よしっ! 話を戻すがお前はまず相手に攻撃を当てなくてはならない、たとえ敵がどんな相手だろうとだ。その為に必要なのは速度と気構えだ。エヴァはお前の思い通りに動くらしいがおまえ自身が遅ければ何の意味も無い。速く速く速く速くまずはそれを考えなくても考えられるようにしろ、エヴァはもっと速いそうだからそれに追いつけるぐらい意識の速度を上げろ」
「はい!」
「そして次に当てる攻撃についてだが、今回はこれを使う」
そう言って教官は腰に指していたナイフを取り出して碇シンジの前に投げた。
「な、ナイフ!?」
「重量は錘を仕込んで本物と同じにしてあるがプラスチックの紛い物だ。弱いお前に本物など持たせられるものか!」
そういう教官の言葉を信じた訳ではないが、碇シンジは恐る恐るナイフを取り上げる。
ずっしりと重い感触を確かめつつ、刃の部分を触ると確かにプラスチックの感触が返ってきた。
「あ、本当だ・・・」
「工ヴァの兵装の一つの『プログレッシブナイフ』と同じ形状、同じ刃渡りを再現してある。これからの訓練ではそれを使って俺を攻撃しろ、もちろん素振りに振り下ろし、振り上げ、横薙ぎそれぞれ千本行なった後だがな。ついでにこれまで通りに反撃は来るから本気でやれ。俺は殺す気でやるからお前もそのつもりでいろ」
「・・・」
「返事はどうした!」
「はい!」
「声が小さい!!」
「はい!!」
「では下段からの払い、千本! 途中で落としたらもう一度初めからだ!」
碇シンジはナイフを構えて、アッパーカットに似た動作でナイフを突き上げる。

シュッ!

意図したのかそこは教官の身長では喉の位置だった。
「踏み込みがあまい!! 遅すぎるぞ!!」
「はいっ!」

シュッ!
シュッ!
シュッ!
シュッ!
シュッ!


しばらくナイフを突く音が訓練場に鳴っていた。
シゴキはまだ終わらない。



◆――――第壱中学、2年A組



トウジと碇シンジが屋上で一悶着起こしてからちょうど一週間が経った頃、碇シンジは教室へ姿を見せた。
「おっ・・・」
クラスメイトは工ヴァのパイロットと噂された碇シンジに我先と話そうとしたが、あまりにも”眠たそう”にしている碇シンジを見て声を潜める。
道を歩けば横に触れ、廊下を通れば壁に激突しそうになる。
目の下に黒い線の様にくまが出来ていた。
「「「「・・・」」」」
誰も声をかけられず、そのまま碇シンジは自分の机に辿りついてすぐさま机に倒れこむ。
十秒もおかずに寝息が聞こえてきて、今までどおりに眠ってしまった碇シンジ。
クラスメイトは聞けなかった残念さとどうしてそんなに眠そうにしているのかの疑問を混ぜ合わせた微妙な顔をするしかなかった。
結局、今まで通り綾波レイは何も言わず、碇シンジは眠った日々が始まった。
エヴァのパイロットである筈の当人達があまりにもそれを表に出さないのでクラスメイト達はまたそれぞれの日常を繰り返す。
その中で、トウジとケンスケの目は背中を丸めて眠っている碇シンジに向けられていた。





一時間目が終わり。
二時間目も終わり。
三時間目も何事も無く終わってしまう。



◆――――太平洋



かつて日本漁業の終着点となった陸から二百海里の位置よりもさらに遠く、文字通り『太平洋のど真ん中』と言ってもいい様な何も無い場所にそれは出現した。
昆虫の装甲、あるいは黒く光る甲殻類を思わせる黒に限りなく近い赤黒い表皮。
足の無いイカが頭頂部に完全な円の目を二つ付けたような形。
海の上にいながら海面の中にいないそれは飛んでいるのではなく浮く生物だった。
探せば似た生き物は世界のどこかにいるかもしれないが、体長三十メートルを超えるそれに酷似した生き物は存在しない。
それは現れると同時に辺りを見渡した。
まるで眠りから覚めた人間のように頭に該当する部分は右へ左へ動かしていく。
腕にも見える頭の下から両脇に生えた突起。
花開くようにと肋骨にも似た昆虫の足のような小さい何かか開き、その中間で紅いコアが光る。
右を見て。
上を見て。
下を見て。
左を見て。
後ろを見て。
前を見る。
全方向を向いて、それはようやくある一点に視線を定めた。
その方向を向いてしばらく時間が経過する。
そしてそれは体を倒して横にすると、向いていた方向へと動き出した。
波紋が海を少しだけ揺らし、それは第三新東京市がある方向へと進んでいく。



◆――――第壱中学、 2年A組、綾波レイの場合



ネルフからの圧力か或いは諦めているのか、教師から碇シンジに対して何かの注意がいった事はない。
だから四時間目の授業が始まっても、碇シンジは誰に注意される事なく眠り続けたままだった。
強者がいれば登校してきた時にあまりにも眠たそうな碇シンジを無理やり起こす事もあったが、エヴァのパイロットである事実はある種の『腫れ物』のような扱いになってしまった。
結局『起きたら聞こう! 尋ねよう!』と言うのが授業時間と休み時間の間に出回ったクラス内の共通意見となり、今は全員事態を静観している所。
起きた瞬間に質問攻めが待ち受けている碇シンジ。
それを待ち望むクラスメイト。
今まで以上に緊張した2年A組。
だがその均衡は一人の少女によって破られる。
その少女の名前は綾波レイと言った。





綾波レイは碇シンジのことを何とも思っていなかった。
綾波レイと言う人格の中で”人”は限りなく少ない。
碇ゲンドウ、赤木リツコ。すぐに出てくる名前はその二人。
ネルフの中には顔を知った”人”は何人かいるが、それでも多く接している訳ではない。
向こうには向こうの、綾波レイには綾波レイの都合がある。
碇シンジが”人”の中に入ってきたのは、綾波レイ自身が興味を抱いたからだった。
だがそれも一週間ほど前の屋上での邂逅で色あせた。


『私と似ている私じゃない他の誰か』


碇シンジが見ているのはその人なのだと聞いたとき、微かにあった興味は完全に消えた。
その瞬間綾波レイの中の碇シンジは『サードチルドレン』になった。
その言葉以上の意味は無く、同じエヴァのパイロットであるが、それ以上でも以下でもない。


『私を見た訳じゃない』


人が聞けばその言葉に込められた感情が嫉妬だと言うだろう。
だが綾波レイはそんな事は知らない。
何より言葉にするほど強い思いでもなかった。
だから綾波レイは授業中にネルフ支給の携帯電話からかかってきた内容をサードチルドレンに伝えるために席を立った。
(使徒が来た)
物理の授業中だった教師が綾波レイの行動に何か言おうとしていたが、気にせずに碇シンジに近づく。
丸まった背中に手を当てて揺さぶる事、二回。
一時間目から寝通しだったので十分休息が取れたのか、碇シンジは目を擦りながらも即座に起き上がる。
「んー」
「非常召集・・・先、行くから」
寝起きの頭でどれだけ理解したか甚だ疑問だが、綾波レイはそれだけ言うと碇シンジに背を向けて教室から出て行った。


ウ〜〜〜
≪ただ今、東海地方を中心とした関東中部の全域に特別非常事態宣言が発令されました。速やかに指定のシェルターに非難してください。繰り返しお伝えします≫


すぐ後に第三新東京市にサイレンと緊急放送が響き渡り、碇シンジは寝惚けながらもそれを聞いて綾波レイの後を追った。



◆――――太平洋



それは海を掻き分け、水平線の先の向こう側に確かにいるモノを見ながら進んでいた。
その場所にたどり着きたいとそれは思う。
そこに行きたいとそれは思う。
求めるモノを手に入れたいとそれは思う。
心も体も一つになりたいとそれは思う。
還りたいとそれは願う。
一つに集約された意識を持ちながらそれは進む。
ただ進む。
そしてそれは自分自身が現れた所から黒い球体と白い球体が追いかけてくる事に気が付く。

『僕は僕』
『私は私』
『君の名前は?』
『あなたは誰?』

唐突に話しかけられたそれは目的以外を考えなかった頭で困惑した。
後方から話しかけられてそれは咄嗟に振り返り迎撃態勢に入る。
どれだけ有用性があるか甚だ疑問の片方五対の短い手を開き、その部分から必殺とも言える武器をいつでも作り出せる態勢。


よく判らないから警戒する


正しいその行為に黒と白の球体は出来るだけ距離をとって同じように話しかけた。
『私は――――――』
『僕は――――――』
『名前は?』
『自己紹介』
『あなたの形は?』


それは何と答えればいいか迷った。
そもそもそれには自身の体と目的以外は何一つ無い。
目の前に浮かぶ二つの球体に敵意が無さそうだという事が辛うじて判るが、それ以上どうすればいいか判らなくて困る。
警戒して攻撃するのが何か間違いだと、言葉に出来ない頭のどこかが言っていた。


『名前?』


だから疑問を言葉にする。
頭の中で思い浮かべた意思は言葉になって球体達だけに伝播していく。
二つの球体は返してくれた言葉が嬉しいのか、上下に移動しながらそれに話しかけてきた。

『君の名前』
『あなたの名前』
『生き物の形』
『あなたの自身の意思』

それは愚直なまで素直だった。
目的と自身の体以外に持ち合わせないその心は率直に返す。


『判らない』


『じゃあ僕らが名付けてあげる』
『あなたの名前が世界に祝福されるように』
『君の形が世界に根付くように』
『私達があなたの証を定めてあげる』
『『シャムシェル』』
『それがあなたの名前』
『君だけが持つこの世界にたった一つだけ祝福された君の名前』
『あなたに私達の心を込めて、この名前を贈る』
『どう?』


それはまた迷った。
二つの球体が何を言っているのか判らない。
唐突に現れ、唐突に言われ、唐突に名付けられた。
何が何だか判らないまま事態は進行する。
それは考える。
そして二つの球体はそれを待って遠くで浮遊する。
それは思う。
それは見る。
それは望む。
それは視る。
それは願う。
そしてそれは言葉を知る。
三週間前に第三新東京市でサキエルが感じたのと同じような心を知る。


『嫌じゃない』という心。


緩んだ警戒はそれにこっの球体を見る余裕を持たせた。
求めるモノに似ているモノ。
似ているけど違うモノ。
名前をくれたモノ。
こちらを見ているのを待っていたようにその二つはまた話し出す。

『『シャムシェル』』
『一緒に行こう』
『私達と一緒に』
『会いに行こう』
『還りに行きましょう』

さっきまで警戒していた心が嘘のようにその言葉はそれ:シャムシェルの心の中に入っていった。
それは良いことだと。
それは嬉しいことだと。
それは楽しいことだと心が叫んでいた。
だからシャムシェルは再び動き出したとき、傍に二つの球体が付いて来ても気にしなかった。
外見は表情が無いので何も変わっていないように見えるが、むしろ喜びを感じていた。
シャムシェルと黒と白の球体は第三新東京市に向かって進んでいく。



◆――――第334地下避難所、相田ケンスケの場合



ケンスケは自分用のハンドカメラを覗き込んでいた。
高額の代償に電波を受信してテレビの役割も果たすそれを見る。
だが映し出される映像は『情報が入り次第お伝えします』の文字だけ。
音声は無く変わらない山間部を背景に映し出された文字が無機質に公共電波に乗って流れていた。
「まただ!」
「また文字だけなんか?」
「報道管制ってやつだよ、僕ら民間人には見せてくれないんだ」
世の中には隠しておかなくてはならない事がある。
それが判っているがケンスケはそれよりも自分が知る事の方が大事だった。
彼の中で世界は自分を中心に回っており、一番に優先されるべきは自分。
だから吐き捨てるように答えてくれたトウジにも聞こえないようにその言葉を言った。
「こんなビックイベントだって言うのに」
ケンスケはそれが殺し合いなのだと知ろうとしない。





人の中には天使と悪魔が住んでいる。

(これは今までになかったビックイベントなんだ)

誰かが言う、片方は『理性』だと。

(見てみたいなあ、碇と綾波がロボットのパイロットって事は出てくるよな)

誰かが言う、片方は『感情』だと。

(人形の綾波と昼行灯の碇だろ? 本当に大丈夫か?)

誰かが言う、それは『歯止め』だと。

(やっぱ駄目だよな、トウジの妹さん怪我したしきっと下手なんだ)

だがそれは個人の意思と経験によって容易く姿を変える。

(もし俺が乗ったらもっと上手くやれてたんじゃないか?)

それは人を錯覚させ、人を編し、人を選択の道へと誘い込む。

(見たいよ、乗りたいよ、でも避難所のロックって俺一人じゃ外せないんだよな)

誰かが言う、天使と悪魔は『選択』の具現化なのだと。

(トウジ・・・・・・利用するか?)

そして人は選択する。

(よしっ!)





ハンドカメラから目を離したケンスケは後ろに座るトウジの方を向いた。
相変わらずのジャージ姿で床に座っているトウジは、今が避難中とは思えないほどリラックスしている。
「なあ、ちょっと二人で話があるんだけど」
「なんや?」
突如話しかけられた不思議さと、不特定多数の人が詰め掛けている避難所に似つかわしくない言葉にトウジは疑問を返す。
「ちょっと・・・な」
ケンスケは不思議そうなトウジに『ここで話すのはまずい』と言わんばかりの顔をして言葉を濁す。
親友だから、そう言えばトウジが次にどう動くか知っているので。
「しゃあないな」
そしてトウジはケンスケの思惑通り、立ち上がって近くで同じクラスの女生徒と話しているヒカリの元へと歩いていった。
その行動に人知れずほくそ笑みながらケンスケもそれに続く。
「イインチョ」
「何?」
ヒカリは友達たちと明るく話していた所を邪魔されてほんの少しだけ顔が濁る。
だが声をかけてきた相手がトウジだと知って再び笑顔を取り戻すが、次の言葉でまた表情が曇った。
「わしら二人、便所や」
「もう、ちゃんと済ませておきなさいよ」
ケンスケは一部始終を見ており、『委員長ってコロコロ顔が変わるよな』と思っていた。
そして二人は大勢が詰め掛けている避難所から人が少ないトイレへと向かう。





ケンスケの言葉が一週間前から用意された事だとトウジは知らない。
親友をだしに使い、他者を定めて、自分の欲求を満たす方法を考えた事をトウジは知らない。
トウジは人が言葉にしない本心を持っている事を知っていても知ろうとしない。
そして甘言は容易く人を惑わせる。





「で、なんや?」
尿意がある訳でもないのでトウジは綺麗に清掃されたトイレの壁に背中を預けた。
「死ぬまでに一度だけでも見ておきたいんだ」
「上のドンパチか?」
ケンスケがトウジをよく知るように、トウジもケンスケを知っているので主語の抜けた言葉を瞬時に察する。
だが理解できても予想していなかった事はトウジを驚かせ『何言ってんのやケンスケ?』と顔が語っていた。
そんなトウジをあえて無視してケンスケは続ける。
「今度いつまた敵が来てくれるか判んないし」
「ケンスケ、お前なあ?」
「”この時を逃しては、或いは永久に!!” 。なあ、頼むよ、ロック外すの手伝ってくれ」
「外に出たら死んでまうで?」
「ここにいたって判んないよ、どうせ死ぬなら見てからがいい」
トウジは自らの常識の中でその言葉を使う。
ケンスケは自らの欲求の中でその言葉を使う。

死ぬ。

だが彼らの中でその言葉が持つ比重はあまりにも軽い。
ケンスケは知らないため。
トウジは”妹が死ななかった”ため。
だから二人とも軽く考えながら続きを話す。
「アホ、何のためにネルフがおるんじゃ?」
「そのネルフの決戦兵器って何なんだよ? あの転校生のロボットだって、この前もあいつが俺たちを守ったんだ。それを殴ったりしてさ。転校生が帰った日のあれ、トウジがやったんだろ?」
「う・・・」
さすがにクラスメイトの前では知らぬ存ぜぬで通したトウジだったが、ケンスケの言葉には即座に返せずに黙り込む。
押し黙ったトウジ、それが一歩引いた事だと看破したケンスケはさらに言葉を重ねて追い立てる。
「それに俺達は同級生がロボットのパイロットだって知ってるだろ? それはトウジや俺も成れるかもしれないって事だ。碇には悪いけどアイツって戦うって言うのと無縁に見えないか?」
冷静に考えればそんな事はある訳が無いと判る。
ケンスケの言葉通りただの中学生がエヴァのパイロットになれるのなら、確かに碇シンジでなくてもいい。
だが現実に『碇シンジでなければならない理由』が確固として存在する。
その現実に目を逸らし、自分の都合のいい部分のみ見ているケンスケとケンスケが語る言葉に惑わされているトウジは気づかない。
そしてケンスケは最後の言葉をトウジに投げる。
「考えなかったか? トウジがパイロットになれば妹さんを助けられたんじゃないかって。その為にもトウジは真実を見るべきなんだよ。見守る義務がトウジにはあるんだから」
「・・・・・・しゃあないな」
ほんの少しの迷い。
だが後ろめたさと『学校の碇シンジ』を知っているトウジは承諾を言葉にする。
誘導された納得できる理由と用意された大義名分。
トウジは本能的にそれを察して、承諾しながら責任を分割するために選択した自分ではなく”ケンスケに向かって”言った。
「それにしてもお前ホンマ、自分の欲望に素直なやっちやなあ」
「へへ」
ケンスケは予想通りになったトウジの言葉に笑みを浮かべる。