生誕と生殺に福音を

第七話
「中学校の意味」

◆――――ある二人の会話



「友人、恋人、親子・・・人は誰かの温もりを求めてる」
「僕らもでしょ」
「そうね」
「そうだよ」
「―――君」
「何?」
「あの時に戻りたいと、あの時間をもう一度繰り返したいと、友達をもう一度得たいとは思わなかったの?」
「あ、”僕”が死んで僕が”僕”の位置に行った時のこと?」
「そう」
「思わなかったなあ」
「何故」
「だって・・・」
「だって?」





「僕は人を好きになったつもりでいたんだ。でも本当はあの人達が嫌いで・・・。躊躇いなく好きって言えるのは――――と―――君だけなんだ」



◆――――第壱中学校2年A組



数日前に訓練どおりにシェルターへの避難が行なわれ、第三新東京市の一部が完膚なきまで破壊されたにも関わらず、教室内は比較的和やかな空気が流れていた。
むしろ場所によっては五月蝿い場所もあり、まだ朝のホームルームも始まっていないのにクラス委員長でロングヘアーを両サイドに2つ結わえて垂らした洞木ヒカリから注意されている生徒さえいる。
少なくとも表面上、クラスは平和だった。





担当科目は数学、すでに定年間際で噂では耳が遠くなって痴呆も始まっている男性の老教師が教室に姿を見せるとヒカリは朝礼を行なう。
「起立。礼、着席」
1、2、3拍子揃った慣れ親しんだ言葉通りに教師が入ってくると同時に席についた生徒達は立って頭を下げて席に座る。
何回も何十回も繰り返してきた動作に淀みはなく、老教師もそれについて何か言及する事はない。
変わりに生徒達をグルリと一望した後、おもむろに話を始めた。
「えー、今日は転校生を紹介します。碇君入って来て下さい」
『ふわい』
それに答えたのは教室の外から答えた碇シンジの声だった。
声に覇気はなく、聞くだけで眠そうな声。
教室内の生徒達は一学期が始まってからは遅く、夏休み前にしては早いこの微妙な時期に編入してくる転校生に興味津々だったが、
返ってきた妙な声に首をかしげる。
そんな生徒達の気持ちを知ってか知らずか、横開きのドアをガラガラと音を立てて開き、碇シンジが姿を見せた。
細身の体、短い髪に中世的な顔立ち。
格好いいではなく可愛い部類に属しそうな容姿に一部の女生徒から『ほおっ』と溜息が漏れる。
品定めしているのは明白だが、碇シンジは全く気にしないで黒板に白チョークを使い名前を書く。
『碇シンジ』
「親の都合で第三に来ました、よろしくお願いします」
「碇君の席は前から二番目のそこです」
老教師はそう言いながらたまたま席が空いていたのか教卓のすぐ前を指差す。
碇シンジはそれに一回だけ領くと誰とも目をあわさないようにして席につく。
「それでは一時間目を始めます」
老教師がそう言うのと碇シンジが机に突っ伏すのとはほぼ同時だった。





碇シンジの転校初日。
それは疲れ果てた体を休ませることに費やされる事となる。



◆――――第壱中学校2年A組、洞木ヒカリの場合



「ねえ碇君」
「・・・・・・」
「碇君ってば」
「・・・・・・」
「起きてよ!」
「んー後五分」
古くから使われているが時と場合を選ぶ台詞を堂々と碇シンジが言ったのは二時間目の授業が終わり、休み時間に入ってからだった。
三時間目は体育、移動教室なので着替える必要があり。さすがに転校初日からこれはまずいだろうと思ったヒカリが声をかけた次第である。
ユサユサと体を揺らして起こすのは妹である洞木ノゾミで慣れているのだが、同年代の男の子に障るのは気がひけたので時間がかかったのも理由のひとつ。
「次、体育なのよ? 転校したばかりで色々判らないんじゃない?」
「んー、今日は体操着忘れてさ。見学することになってるから大丈夫」
そう言う碇シンジはまだ寝ぼけ眼でどこまで本気なのか判らないが、一応筋は通っているのでヒカリは押し黙る。
その隙を突いて碇シンジは起き上がり、トロンとした目をしながら教室の外へ出て行った。
(寝てばっかりで、変なの)
それが委員長洞木ヒカリが碇シンジに抱いた第一印象だった。
ちなみに洞木ヒカリの人生観では学校とは寝に来る場所ではない。



◆――――碇シンジの場合



碇シンジの日常は極々判りやすいものとなった。
ネルフで重火器や状況把握も含めたエヴァの訓練。
ネルフで教官相手の戦闘訓練。
第壱中学での就寝。
移動を省くとこの三点に日々の生活の殆どは集約されることになる。
まるでそれ以外を忘れるように。
まるで何かを求めるように。
一心不乱に碇シンジは日々を過ごした。





中学生はグループを作り出して固まって日々を過ごす。
共通の趣味を持つ者同士。
成績がいいもの同士。
食事のときに固まる者達。
通学路が同じで固まる場合。
色々な場合があるが、碇シンジは転校初日から一人だった。
何しろ碇シンジが学校にいる場合、主に授業中だが休み時間も殆どと言って良いほど眠っている。
たまに話しかける委員長ヒカリを除き、一人で来て一人で寝て一人で食べて一人で帰る日々。
そんな状態では友達は出来ず、日々だけが二週間ほど流れていった。
だが碇シンジに変化の日が訪れてしまう。



◆――――碇シンジ、転校から二週間目



『ある事情により怪我を負った、療養のために休んでいたがもう復学しても大丈夫』
それが表向きの綾波レイが学校を休んでいた理由だった。
まさか生死の境をさまようほどの大怪我を人為的に負って、骨が折れて、顔面の皮が裂けて、腹部が裂傷した事などヒカリは知らない。
だからこそ単純にクラスメイトの回復を言葉にした。
「良かったね綾波さん。ずっと休んでたからちょっと心配したんだ」
「そう・・・」
ヒカリと綾波レイの付き合いは中学二年になってから、しかも綾波レイは淡白なのか無表情なのか率先して会話する事がないので同じようなやり取りを何度か繰り返している。
そしてそれ以上に会話が発展する事はない。
ヒカリはそれを『きっと人見知りしてるのね』と勝手に決め付けて、度々話しているが結果に結びついた事はない。
殆ど喋らない綾波レイ。
ずっと寝ている碇シンジ。
問題児を抱えながら何も言わない担任教師の代わりにヒカリは誰にも聞かれない溜息を吐いた。





制服で覆い隠された腹部にある打撲の後。
ここ二週間の死ぬような訓練で碇シンジの肉体は急激に鍛えられていった。
だが元が元なので軍属で言えばまだ新兵レベルにもたどり着いていないので、相変わらず教官からの罵声は止まらない。
むしろ日に日に増していく。
そんな命がけ訓練の合間の休息を取るためだけの義務教育の中学校に来る事を面倒と感じると同時に助かったとも思っている。
『休めるのに理由があるから』
消極的な思考を考えながら、通学すると同時に机にうつ伏せになる。
既にいつもの風景となってしまったので今更注意するクラスメイトはいないので、碇シンジはまるでいない様に扱われた。
無機質で同じ教室にいながら大きな壁を隔てた間、たまに話しかけるヒカリが辛うじて碇シンジの存在をクラスメイトに確認させる。
だが誰も、当事者である碇シンジも気にしない。
そんな異常事態が続いたある日、綾波レイが教室に姿を見せた。





学校という閉鎖空間の中に紛れ込んだ異分子。
いてもいなくても代わらない存在。
例え顔が良くても碇シンジと綾波レイの評価はその程度だった。
だが二人は病室で一度目を第壱中学の教室で二度目の出会いを果たす。



◆――――前日、ネルフ系列病院409号室



「コラッ! くそ兄貴、何べんも言うてるやろ、ウチは大丈夫やから学校いかなアカン」
「何言うとんや、妹が病院でおとんとおじいは仕事。兄貴いうんはこういう時に付き添うもんや」
「それが余計なお世話やて、言うとるやろ!? 元々悪い成績がもっと落ちたらどないする気や、オトンが怒ったら怖いでえ。ウチは一人でも大丈夫言うてるやろ?」
「う・・・と、とにかく横になって休めや! お偉い先生があと三日は様子見言うとったで、それまで付いたるわい!」
「そのお偉い先生が言うた事と馬鹿兄貴がここにいるんは別問題やろ!? 小学生でも判るわアホウ!」
「ワシはお前を心配しとるんや! それにしても、ロの減らん奴やなあ、誰に似たんや?」
「爺臭いで、老け顔が中身まで変わったんか?」
リクライニング式のベッドに背中を預ける小柄な少女と、その様でパイプ椅子に座る黒いジャージを来た男の子が怒鳴りあっていた。
ただしそこに険悪な雰囲気はなく、むしろ怒鳴りあう事が彼らなりのコミュニケーションの一部なのか顔は笑っている。
鈴原ナツミ、病院の上位のある場所からの命令で彼女はつい先日まで面会謝絶状態だった。
昏睡状態が長引いているので絶対安静というのが表向きの理由だったのだが。
その内実、目を覚ますと同時に数人がかりで現場での状況やらその時思った事やら経緯やら根掘り葉掘り聞き出していた。
ナツミ自身知らない事だが、実は退行催眠も行なわれてその時の事実を包み隠さず暴かれていたりする。
だが結果は『黒い丸が近くに来て気を失った』以上のことは判らずじまい。
情報を聞き出した大人から『二度としちや駄目だよ? 死にたくないならね・・・ふふふ』と脅され。原因となった『寂しかったからクマの縫いぐるみを取りに行った』が父親の耳に届いたときには脳天に拳骨を三発くらって悶絶。
涙を流しながら『何すんねん!!』と言うと、父親からは『シェルターは危険だからあるんじゃあ!! 金輪際出たらアカン!!』とありがたい言葉と追加の四発目を貰った。
そんな経緯はあったが現在のナツミは子供らしい元気さが溢れ出している。
ある人物が知る史実とは違い・ ・ ・。





「兄貴がこんでも明日から友達がぎょーさん来るから大丈夫や、安心して学校行かんかい!!」
「せやけどワシは後悔しとるんや。寝ててシェルターで見失わんかったらこないな大事にはならんかったってな。付き添わせてくれや」
「何言うとんねん! 兄貴が来る前にネルフっちゅうとこのお偉いさんに聞いたで。秘密兵器とかが出てウチ等を助けてくれたんや、兄貴がおらんでも十分大事になっとった」
「うっ」
「それ以上は口止めされて言えへんけどな。クマ取りに行ったウチが悪いのは当たり前のことで自業自得や。せやから兄貴はなーんにもせんでええ」
「ううっ」
「こないな狭い病室やけどな、ウチは感謝しとるんや。けったいなモノやったけど珍しいもん見れた。命は無くしとらん。これ以上なんか欲しがったら罰が当たるで。だから兄貴は男所帯で家が汚くなるのを防がなアカン。家守るんは男の仕事何やろ? ウチが戻るまで守っとき」
「ううううううう、判ったわナツミ。お前がそこまで言うならワシも引き下がる!!」
「やっと判ったか馬鹿兄貴」
止まる気配が無かった会話はようやくそこで終息していく。
ナツミの兄:鈴原トウジは自分への罪悪感と妹思いを言葉にするが返ってくる言葉は辛辣。
妹のためにこの場を引き下がる事を決意したトウジは椅子から立ち上がり部屋から出ていくところでもう一度振り返り最後の捨て台詞を言った。
「せやけど何かあったら真っ先にワシを呼べ! 絶対や!!」
「頭の隅っこの片隅のそのまた端ぐらいで覚えとくわ」
完膚なきまで撃沈されて、ドアが閉まった後に心なしか意気消沈した足音が遠ざかっていくのをナツミは聞いた。
その足音が小さくなり次第に聞こえなくなると、一人残された病室でポッリと咳く。
「ウチかて、はよう遊びたいで? せやけど駄々こねてもしゃあない。これ以上オトンにもお爺にも兄貴にも迷惑かけられへんやんか」



◆――――第壱中学校、2年A組



ヒカリと朝の挨拶を問題なく済ませた綾波レイが教室に姿を見せたのはホームルームの始まる二十分前の事。
まだ顔に包帯を巻いた姿が少し痛々しいが、顔はクラスメイトの知る無表情なので『まあ、大丈夫かな?』と思わせるには十分すぎる判断材料だった。
結果、痛そうではあるがその点について追求するものはおらず、綾波レイは窓際の自分の席に座った。
座って前を向いたとき、そこには背中を丸めてうつ伏せになっている碇シンジの姿があったが、綾波レイは特に何も思わなかったし、しなかったし、言わなかった。





「ギュアアアアアアアン!! ドドドドドド」
2年A組の生徒の一人相田ケンスケは『それらしい爆撃音』を口にしながらハンドカメラで戦略自衛隊のVTOL機を模して作られたプラモデルを片手で持って撮影していた。
底部にケンスケ自身の指があり、 VTOL機も所詮プラモデルに過ぎないので本物に比べると重量感がかなり劣る。
本格的な撮影ではなく、あくまで『遊び』をしているとハンドカメラの映像の中に一人の少女が入ってきた。
「何? 委員長」
ヒカリはケンスケがカメラを外したのを確認すると少し責める口調で言った。
「昨日のプリント届けてくれた?」
「あ、ああ。や、なんかトウジの家、留守みたいでさ」
ケンスケは言葉を濁しながら、体で視界の隙間を作り『昨日のプリント』を机の中に押し込んだ。
ヒカリとて通常なら気付きそうなのだが、ケンスケの口から出た『トウジ』に惑わされてそれを見逃す。
「相田君、鈴原と仲いいんでしょ? 心配じゃないの?」
責める口調がさらに上がり、このままだとプリントを届けに行かなかった事実がばれそうだと察したケンスケは強引な会話の方向転換をする。
結果としてそれは実ってしまった。
「大怪我でもしたの・・・かな?」
「え、例のロボット事件で!? テレビじゃ一人もいなかったって」
「まさか、鷹巣山の爆心地見たろ? 入間や小松だけじゃなくて、三沢や九州の部隊まで出動してんだよ? 絶対、10人や20人じゃ済まないよ。死人だって」


ガララララ


ケンスケの言葉を止めたのは教室の後ろのドアが開く音だった。
思ったより大きく響いたそれに二人は揃って後ろを振り返り。ケンスケは持っていたハンドカメラを向ける。
そこには黒いジャージ姿のトウジがいた。
「トウジ・・・」
「鈴原・・・」
まさに話題の人が出てきたので、二人は呆けているとトウジは教室内を見渡して咳く。
「何や、ずいぶん減ったみたいやな」
そういいながらケンスケの席のすぐ近くの一番後ろの席に荷物を置くトウジ。
ケンスケは話がそれた事に喜びながら、ヒカリから話題を離してトウジへと向かう。
この時、教室内は机が四十個ほどに比べて人は半数より少し多いぐらいだった。
「疎開だよ疎開、みんな転校しちゃったよ、街中であれだけ派手に戦争されちゃあね」
「喜んでんのはお前だけやろな、生のドンパチ見れるよってに」
「まあね。トウジはどうしてたの? こんなに休んじやってさ、こないだの騒ぎに巻き添えでもくったの?」
トウジの親友として出来るだけ和やかに話していたケンスケだが、トウジの方はその一言で少し会話が止まる。
ほんの数秒だったが、立っている姿勢から机に座り直したトウジは改めて口を開く。
「妹の奴がな・・・妹の奴が巻き込まれて入院する羽目になってもうて、ずっと入院してんのや。うちんとこ、おとんもおじいも研究所勤めやろ? 今職場を離れるわけにもいかんしな? ワシがおらんとあいつ病院で一人になってまうからな」
「妹さんがか・・・大変だったんだな。でも命に別状は無いんだろ?」
「あと数日で退院って聞いたわ。しっかし、あのロボットのパイロットはほんまにヘボやな。むちゃくちゃ腹立つわ、味方が暴れてどないすんるっちゅうんじゃ!!」
トウジはこの時、何も出来なかった自分と妹に疎遠にされる自分に対して怒っていた。
言葉では何かに当たる事で気を紛らわし、内心では自分自身を責める。
もしこの言葉がトウジー人の時に独り言として言われた事なら、トウジが思い悩み苦しんでそれでも答えを出して終わったかもしれない。
だが運が悪い事に、トウジが話した場所には『怒りの捌け口』を知っている人物が一人いた。
単純さは美徳でもあり、それを利用されトウジは親友の言葉を聞いてしまう。
「それなんだけど聞いた? 転校生の噂」
「転校生?」
「ほら、あいつ、トウジが休んでる間に転入して来た奴なんだ」
ケンスケはそう言いながら前の席で舟をこいでいる碇シンジを指差した。
いつも通りならこの後『起立、礼、着席』だけ終えて眠りの世界に落ちていく事をケンスケは知っていた。
「碇シンジって言うんだけど、あの事件の後にだぜ? 変だと思わない?」
「アイツが・・・ロボットのパイロットや言うんか?」
「可能性は高いと思うね」
その時、担任の老教師が教室に入って話は中断した。





碇シンジは頭に衝撃を覚えて跳ね起きた。


ドガラッシャン!!


椅子はひっくり返リ、後ろに座っていたクラスメイトは驚いて授業に使っていたパソコンを落とし、隣の席からはペンケースが落ちる。
教室内では突然の碇シンジの奇行に『何だ何だ?』と不審な目を向けるが、碇シンジの視線は衝撃が来た方向へと向かう。
見ると、一つのパソコンを二人で見ている女生徒がいて、その手には小さく刻んだ消しゴムが握られていた。
そこで眠りの中で感じた微かな衝撃が小さく千切った消しゴムがもたらしたものだと知る事ができる。
度重なる戦闘訓練で、緊急時にどれだけ体を動かせるかが身につき始めた碇シンジ。
少ない衝撃に反応するのはまるで脅えた子猫のようだが、条件反射なので致し方ない。
消しゴムを飛ばしてきた女性とにどんな意思が合ったのか碇シンジは知るよしも無いが、迷惑をかけたことに変わりは無いので謝罪の言葉を口にする。
「・・・・・・すいません」
教室全体を見渡しながら謝って席につくと、目の前にいる担任教師。
「その頃私は利根川に住んでましてね」
何事も無かったかのようにセカントインパクトの話を続けるその仕草に『結構大物?』と思いながら碇シンジは視線を落とす。


恥ずかしい。


だが現実は変わらない。
誤魔化しながら机の中から自分用のパソコンを引き出して、授業を受ける振りをする。
内実、まだ戦闘訓練の疲れが取れず寝足りないのだが、唐突に起こされた体は寝ることを拒絶していた。
パソコンを起動して一瞥。
そこでようやく自分宛に学校内専用のメールが来ていることを知った。
「??」
訳が判らずさっきの女性との方を向いてみると、すまなそうな顔をしながら手を振っている。
どうやらこの事を告げようと消しゴムの一部を投げて起こそうと画策したらしい。
呆れながら視線を戻してメールを開いてみると、そこには『シンジ君があのロボットのパイロットっていうのは本当?  Y/N』とあった





少なくとも碇シンジが知る限り、エヴァについてはネルフのトップクラスの極秘事項。
真っ先に考えたのは『何で知ってるの?』だった。
そういう意味も込めてもう一度見てみると、女生徒は新しくメールを打ったようで盛んに『画面を見て』と碇シンジのパソコンを指差している。
感化された訳ではないが、何となく他の事ができずまたパソコンに視線を戻す碇シンジ。
今度は『ほんとなんでしょ? Y/N』の文字が映し出されていた。
碇シンジは何が何だか判らない。
何故転校してから二週間も経った今なのか。
何故一般人がエヴァについて知ってるのか。
何故碇シンジが疑われているのか。
疑問が疑問を呼んで、訳の判らなさが碇シンジの中に生まれると、眠気の強さと答える空しさを考えて何もかもがどうでもよくなってくる。
今見たことを忘れようと、答える気も無い意思表示をするために、さっきよりゆっくりと振り返ったところで碇シンジはそれを認識する。


窓際の席に座る綾波レイを。


碇シンジは困惑し、迷って、気が付けばさっきと同じように立ち上がっていた。
喉がカラカラに渇いている。
目の前の一つしか見えない。
意識がそこに吸い込まれていく。


綾波レイ。


自らの行動が理解は出来なかったが、碇シンジは何かに突き動かされて綾波レイの元に近づいて腕を取った。
そのまま力任せに立ち上がらせ、教室を出て行く。
綾波レイはいきなりの碇シンジの行動に反抗もせず、ただ付いて行った。
「碇君、綾波さん。今は授業中よ!!」
後ろの方で声が聞こえたが碇シンジの耳には届かない。



◆――――第壱中学校、屋上、綾波レイの場合



事前知識として『碇シンジ』の名前は知っていた。
ファーストチルドレンである自分、そしてサードチルドレンである『碇シンジ』 。
ネルフ総司令の碇ゲンドウ、自分の存在を唯一肯定してくれる人の息子。
珍しい事ではあるが綾波レイは碇シンジに興味が合った。
無表情の奥、同じチルドレンという問題ではなく、初対面のときに自分の事を『お姉ちゃん』と呼んだ真意が知りたかった。
これまで綾波レイが生きてきた中で、そんな呼び方をしたのは一人もいない。
でもわざわざ聞きに行くほど重要な事でもない。
だから不思議に思い、唐突に引かれた手に抵抗せずにただ従った。
そして今、授業を抜け出して綾波レイは碇シンジとともに屋上にいる。





「何か用?」
淡々と話す言葉に碇シンジは答えず、ただじっと綾波レイを見ていた。
蒼い髪を紅い目を透き通った肌を右目に巻かれた包帯を注視する。
「何?」
再度ここに連れて来た用件と碇シンジの撫で回すような目を責める意味で綾波レイは言う。
すると見る事に満足したのか、目を見返して言った。
「僕を知ってる?」
「碇シンジ、ネルフ所属の初号機専属操縦者サードチルドレン、司令の息子」
「それだけ」
「ええ、それだけよ」
綾波レイは今回を入れて碇シンジと二度しか会っていない。
会話と呼ぶのもおこがましい言葉の噴きだけが行なわれた対話で、肩書き以上のことは知らない。
だからこそ事実を淡々と告げた。
「・・・綾波、レイ?」
「そう、零号機専属操縦者。ファーストチルドレンよ」
何故わざわざ確認するのか不思議に思いつつも綾波レイはまた事実のみを返す。
工ヴァのパイロット、二人の共通項はそれ以外に無いのだから。
「・・・違っていたらゴメン」
「何?」
「・・・綾波は昔、僕と会ってる?」
「会うのは二度目、昔を二週間前というなら会ってるわ」
「そうじゃなくて・・・数年以上前なんだけど」
「会ってないわ」
それは紛れも無い事実。
綾波レイは碇シンジとこの町で二週間前に初めて会った。
綾波レイは事実をそのまま口にしたのだが、碇シンジはその言葉を聞くと少し落ち込んだ表情になる。
「綾波にはお姉さんとかお母さんいる?」
「お姉さん? お母さん? いないわ」
「そう・・・」
次の言葉には得心が行ったのか、何度か領いてぶつぶつ呟きだした。
「そっか・・・そうだよね、そんな事ある訳が無いよね。だって”あの人”と変わらな過ぎる、あれから十年近く経ってるのに・・・じゃあ”あの人達”は!? ただ似てるだけ? でも似すぎてる」
綾波レイには理解できない独り言で碇シンジは咳く。
端から見ると危ない人に見えるが、綾波レイはそれを追求するほど他人に関心は無かった。
次に出た言葉は用件のみを尋ねる極々短いものとなる。
「”お姉ちゃん”、あなたは初めて私と会ったときそう言ったわ、あれはどういう意味?」
「え・・・?」
質問がよっぽど意外なのか、碇シンジはロを半開きにした間抜けな格好をしてしまう。
「病院で私と目が会ったときあなたは言った、”お姉ちゃん”と。あれは何?」
「・・・・・・僕がまだ小さい時に綾波とそっくりな人に会ったんだ、だから最初に会ったとき同一人物じゃないかって・・・そう思ったから。あの、僕は昔その人のことお姉ちゃんって呼んでて・・・」
「そう」
言い訳する碇シンジの話が長引きそうだったので、綾波レイは強引に話を打ち切る。
碇シンジの昔話に興味は無く、自分が知りたい事を知れたのでもう用は無い。
綾波レイは黙ってしまった碇シンジの横を通り過ぎて、屋上の扉を開いた。


「「「「わああああああ!!」」」」


そして外側に開くドアの内側から2年A組の生徒が数人屋上に転げ落ちた。



◆――――第壱中学校、屋上、鈴原トウジの場合



最初に碇シンジを見たときに思ったのは何も無かった。
風景の一部だと思って、教室内に”そういうもの”があるのだと漠然と感じただけだったが、ケンスケの言葉でそれは激変する。
頭のどこかでそれは八つ当たりだということが判っていた。
だけど八つ当たっても感情が納得できてしまうので歯止めが効かなくなる。
心の中に燻った怒りを向ける方向が現れてしまう偶然。
ヒカリの『皆! 授業中でしょ』という言葉を振り切り、数人がかりで屋上のドアから聞き耳を立てていた。
そこには碇シンジにメールを送った女生徒に加えてケンスケと注意しながらも興味があるのか黙っているヒカリの姿もあった。
突如開かれたドアに全員寄りかかっていた為、屋上へと転げ落ちていく。





「あ、あははははは。奇遇だな綾波」
最初に乾いた笑いを発したのはケンスケだった。
だが綾波レイはどう見ても野次馬で盗み聞きしていたクラスメイトを一瞥しただけで何も言わず横を通り過ぎて階下へと降りていく。
元々綾波レイに対する認識は『氷の女王』と異名をとるほど他の事に無関心。
2年A組の授業サボり隊数人は仕方なくのろのろと起き上がりながら屋上に残った碇シンジに視線を向ける。
「あ、その。聞くつもりは無かったんだけど、授業をサボるなんて行けないと思うわ!!」
ヒカリはその場に合っていたが少し的がずれた言葉を投げ掛ける。
だがそれよりも聞き耳を立てていた数人には優先して聞きたいことがあるのでヒカリを押しのけて碇シンジに近づいていく。
「ねえねえ碇君ってロボットのパイロット?」
「さっき綾波さんと話してたよね、本当なんでしょ」
「綾波さんもパイロットだったんだ一一、凄いよね一一」
「でも綾波さんってあんまり喋ってくれないよね一一」
あっという間に囲まれた碇シンジの返答を待つ事無く、自分達の真実を押し付けていくが碇シンジはおろおろしながら対応に迷っている。
少し離れた位置にいつの間にかハンドカメラを構えたケンスケがいて、ヒカリは覗き見た後ろめたさでどうすべきか迷い、トウジは状況を窺っていた。
「ねえどうやって選ばれたの?」
「ねえテストとかあったの」
「怖くなかった」
「操縦席ってどんなの?」
矢継ぎ早に投げ掛けられる疑問におどおどしながらも何とか碇シンジは返す。
それは『碇シンジ=ロボットのパイロット』を決定付ける一言でもあった。
「あ、いや。そういうのって秘密で」
「「「えー!」」」
「じゃあさ、じゃあさあのロボットって何なの」
「必殺技とかある」
「碇君どこに住んでるの?」
「皆はエヴァとか初号機って呼んでて・・・武器は何とかナイフとか言って・・・振動が構、超音波みたいに・・・」
「すごいわ学校の誇りよね」
「ねえねえ、他にも色々教えてよ」
「ちょっと皆! 今は授業中なんだから早く戻らなきゃ!!」
「あーー委員長そうやってまた仕切る」
「いいじやん、ちょっと位」
「よくない!!」
何とか復帰を果たしたヒカリが女生徒達と碇シンジに割り込んで場を仕切る。
碇シンジに詰め寄った人数が三、四人と少数でクラス委員長が相手では分が悪いと感じた女生徒達は仕方なく碇シンジから離れると綾波レイのように階下へと向かった。
「じゃーね、碇君」
「教室に戻ったらまた話そうね」
「きっとだよ、待ってるから」
姦しい捨て台詞を残して。





「碇!! お、おおおおお前本当にあのロボットのパイロットなのか!?」
女生徒が消えた隙間を縫って今度はケンスケが碇シンジに詰め寄っていく。
そこには興味本位よりもむしろ妄執に近い熱心さがあり、碇シンジはさっきより引いた。
「え、あの。そうだけど」
「何ーー何て羨ましいんだ、俺も乗ってみたい!!」
「ちょっと相田君、今は授業中なんだから教室に戻らなきゃ駄目でしょ!」
「ちぇっ、ちょっと位いいじやん」
「駄目!」
同姓に容赦は無いが、異性にはもっと容赦がないヒカリ。
あまりに強く言われ、碇シンジもあまり会話に乗り気ではないのでケンスケは渋々引き下がる。
話している間ずっと撮影していたハンドカメラをしっかりと回収しながら。
「仕方ないか・・・トウジ戻ろうぜ」
黙って事態を見守っていたトウジに声をかけて戻ろうとしたケンスケ。
だがトウジはそれに賛同せず、じっと碇シンジを見ていた。
「トウジ?」
「ケンスケ・・・それからイインチョ、悪いんやけどワシ、こいつとちょっと話があるよってからに、先教室戻っといてくれや」
「話? あー、あの事ね」
唯一トウジの妹についての内情と妹思いのトウジを知るケンスケはそれだけで何のことか察する。
「鈴原、話なら後でも出来るでしょ? 今は授業中なん『頼むわ・・・イインチョ』だ、から・・・」
滅多に見られない真面目な表情で真っ直ぐにとカリの目を見てトウジは言った。
トウジが気になっていたヒカリは予想外の反撃に目を丸くするが、ほんの少しだけそこに艶が混じる。
「ちょ、ちょっとだけだからね、すぐ戻ってきてよ!」
「ああ、ありがとさん。イインチョ」
「トウジ! 無茶するなよ」
そしてケンスケとヒカリも屋上から姿を消していく。
洞木ヒカリ中学二年生、トウジに恋に落ちた瞬間だった。





「・・・」
「・・・」
碇シンジは始めてみるクラスメイトを不審に見ていた。
トウジは碇シンジを見ていたが、それは睨みつけているといったほうが正しい。
疑惑と憤怒。
無言の中で全く別のことを考えている二人。
最初にロを開いたのはトウジだった。
「転校生・・・ワレ、あのロボットのパイロットっちゅうのはホンマか?」
「・・・本当だよ」
屋上で二度も詰め寄られて今更なにを言い出すのか判らない碇シンジに疑惑が積み重なっていく。
しかしその言葉に満足したトウジは無言のまま碇シンジへと近づいていった。
そして・・・。


バキッ!


トウジは自分勝手な怒りに任せ、躊躇ない拳で碇シンジの頬を殴る。
その衝撃で碇シンジは屋上に座り込んだ。
「すまんな転校生、わしはお前を殴らなあかん。殴らんと気がすまんへんのや」



◆――――第壱中学校、屋上、碇シンジ場合



よく判らない


それが碇シンジの正直な感想だった。
碇シンジは自身に何が起こったことを正確に理解し、トウジが話した言葉を一語一句漏らさずに聞いた。


それでも判らない。


この二週間、教官にもっと凄まじい痛みを教わったので、素人に毛が生えただけの中学二年の拳など蚊に刺された程度しか感じない。
教官を見れば判る。
自分の動きの不甲斐なさを見ればもっと判る。
目の前のジャージを来たクラスメイトは腰が入っていない、コブシに握りが甘い、軸足が弱い、手が一直線になっていない。
ただ単に上半身の捻りだけで拳を『当てた』ので痛いは痛いが大した強さではない。
だからこそ考える余裕が生まれる。
何故殴られる?
何を言っている?
何のこと?
そもそも誰?


「・・・何を言ってるの?」


殴られた頬に手を当てて、碇シンジは本当に判らないのだから当たり前のことをロにする。
だがトウジはそれが気に喰わなかったのか、もう一度殴れる距離まで近づいて叫んだ。
「この前の戦いでワシの妹が怪我したんや。転校生、お前の運転するロボットがヘボなせいや」
実際には怪我も痣程度で、子供の回復力があれば一週間も経たずに全治する軽い怪我。
二週間拘束されていたのはネルフが情報を欲していた事と、トウジの妹ナツミが勝手にシェルターを抜け出したお仕置きの意味もある。
だからこそ完全な八つ当たりなので、トウジの『殴る理由』には当てはまらない。
碇シンジはトウジの言葉でエヴァに乗る時に感じる暖かい気持ちと、止める事の出来ない高揚感をほんの少しだけ思い出しながら言った。
それにロボットなら運転ではなく操縦では? 等と言葉の差異を思いながら
あれはとても気持ちのいいこと・・・。


「人が・・・居たんだ」


だから他の事が考えられなかった。
暖かい何かに包まれる感触。
敵を屠る強さ。
痛みさえ快楽に置き換わりそうな危険な場所。
それは求めるモノが具現化された碇シンジの力。
だが率直な言葉は当時をさらに激怒させた。
そしてトウジの手が碇シンジの胸倉に伸びる。





『お前は相手が待ってくれると本気で思っているのか? そう考えているのならお前はクズだ。一時の迷い、一瞬の隙、ほんの僅かな隙間が生死を分ける、それが戦いだ。負けるのが嫌ならば先の先を取れ、攻撃されたら後の先をとれ。ただ攻撃されるだけなら案山子でも出来るぞこの役立たずが!! 強さを証明してみろこのくそ虫が!!』
それは四日前に昏倒させられる直前に聞いた長官の声。





掴まれるより早く。
避けられるより早く。
悟られるより早く。
あの時はそう思いながら繰り出した拳はあっさりと避けられて長官の反撃に沈んだ。
最後に『痛いなあ』と考える余裕さえあって気絶した時間。
まるでそれを打ち破るように碇シンジはその時と同じ動きをした。
右足を使い踏み切り、左足を相手の前に踏み込んで、左手を引いて、立ち上がる速度と左手を引いた速度を乗せて右手を出す。
振り上げた拳は伸びてきた手をすり抜けてトウジの顔面に突き刺さる。


ボゴンッ!!


骨と肉がぶつかり合う音が屋上に鳴り響いた。



◆――――第壱中学校、2年A組、相田ケンスケの場合



一足先に教室に戻ったケンスケを待ち構えていたのは、外を見ながらセカンド・インパクトの話をする担任を無視したクラスメイトの喧騒だった。
その中心にいるのは綾波レイ。
どうもケンスケより先に戻った生徒が『碇シンジと綾波レイはロボットのパイロットである』と風潮したようで、窓際の席を中心に人の山が出来ていた。
「ねえねえ綾波さん、ロボットのパイロット何でしょ?」
「どうやって選ばれたの?」
「怖くなかった?」
屋上から戻っていた女生徒は碇シンジのときと同じように同じような質問を投げ掛けていたが、綾波レイはそれらを一瞥した後は完全に無視していた。
むしろこれまでの綾波レイと知っている人間からすればそれは当然の事でもある。
『そこにいるのにそこにいない』
初めからいないような存在なのにそこにいる奇妙な生徒、綾波レイ。
最初はクラス中、知った人物がロボットのパイロットである事に浮き足立っていたが。何も話してくれない、ほとんど喋らない事を知っているので次第に人の山が崩れていく。
結局、数分と経たずに誰もが席に戻り静かな授業風景が再開した。
自らも席に戻ってハンドカメラの映像をチェックしながらケンスケは思った。
(羨ましい)
相田ケンスケという人物を客観的に言葉にすると『ミリタリーマニア』である。
戦艦、空母、戦闘機、戦車。
情報として手に入れた軍事装備は多岐にわたり、自らも戦場カメラマンになったつもりで写真を何百枚と撮っている。
自分の部屋の中には軍用ナイフのレプリカや外装を忠実に再現したエアガン。
軍用の迷彩服も通販とは言え本場を仕入れた。
自他とも認めるマニアだが、それは所詮遊びの域を出ない。
(いつか本物になる)
そう決めてしまうのに多くの時間を必要としなかった。
だが今の自分はただの中学二年生。
勝りと悩みを自身の内に抱え込み、それを誤魔化すために今まで以上に戦場に憧れる。
そんな日々を過ごしていたケンスケにとって碇シンジと綾波レイの存在は希望と言えた。
どちらとも細身で『戦い』という視点から見たら遠い位置に居そうに見える。
(もしかしたら俺も?)
なれるかもしれない。
それがどれだけ危険な事か。
それがどれだけ愚かな選択か。
それがどれだけのモノを失う事か。
相田ケンスケはまだ知らない。
思ったより手に入らなかった情報と徴かな希望で残念さと嬉しさを同居させた奇妙な感覚をケンスケが味わっていると、教室の後ろのドアが開く。


ガララララ


クラス中の目が一斉にそちらに向く。
誰もが『パイロットの碇シンジ』を待ちわびていたので、それを期待した。
が、現実に姿を見せたのはトウジだった。
「な、なんや皆して見よって」
「「「・・・」」」
そして皆が皆振り向いたときと同じように前を向く。
担任の老教師は数学の授業のはずなのにやっぱりセカンド・インパクトの話をしていた。





「トウジ、碇の奴どうしたんだ? 一緒じゃないのかよ」
席に戻ったトウジに真っ先に声をかけたのは”トウジよりもパイロットが気になる”ケンスケだった。
「・・・知るか! あのボケ」
トウジは苛立ちを隠そうとせずに怒鳴る。
それでも授業時間を考慮に入れてか声は小さい。
「何かあったのか? よく見るとトウジ、どうしたその顔」
疑問をぶつけながらトウジの顔を覗き込んだケンスケはそこで初めてトウジの顔の変化に気づく。
向かって左、トウジの右頬がうっすらと赤みを帯びて小さく腫れている。
まるで殴られたような後があった。
「まさか、あのヒョロヒョロの碇がやったのか?」
「階段でころんだんや」
『そんな訳無いだろ!』と言葉を続けようとしたケンスケだったが、それを言うと意固地になったトウジがそれ以上何も言わない事を長い付き合いで知っているケンスケは言葉を塞いだ。
その代わりにありきたりとも言える言葉を話す。
「冷やさないと次の日に腫れるぞ」



◆――――第壱中学校、屋上、碇シンジ場合



碇シンジは屋上に横になって青い空と白い雲を見ながらさっきのことを思い出す。
理想とも言える必殺の一撃。
ほとんど無意識に放ったそれはトウジの頬に激突したがそこで終わった。
(初めて殴ろうとして人を殴った)
殴られることは昔とここ二週間で慣れた。
だが、命じられたのではなく自分の手で自分自身の意思で誰かを傷つけたのは初めてのこと。
”力”を渇望しておきながらその仮定と結果を考えなかった自分を不思議に思ってしまい、躊躇いは動きに現れ途中まで見事だった
攻撃は最後の『振り抜き』が出来ず、威力は半減し。結果、軽症だったトウジにマウントポジションをとられての猛反撃。
五発ほど殴ったところで気が済んだのか、碇シンジを置き去りにしてトウジは屋上から消えた。
痛みで反撃できなかったのではなく、自分がやったことを考えていた碇シンジがそれ所ではなかったのが理由。
少し汚れた学生服を見て『洗わなきゃ・・・』と思いながら碇シンジはまた空を見た。
そして思う。
(気持ちよかった・・・)
エヴァに乗って敵と戦った時は違う自分自身の手で殴った感触。
皮の揺らぎが、肉の乱みが、骨の硬さが、相手の熱さが一つ一つ感じられる。
一瞬の事がまるで永遠に近い錯覚。
『あれがもし完壁に決まったら?』
そう考えると自然と痛みは薄らいだ気分になる。
これもまた一つの”力”、そう碇シンジは実感する。
そして今の自分が教官の言うとおり『弱い』ことも自覚する。
「・・・いい天気だなあ」
一つの答えが導き出せたような満ち足りた気分で、碇シンジはそのまま屋上で眠った。



◆――――第壱中学校、2年A組



時刻は既に放課後になっていた。
担当教師の連絡事項と委員長ヒカリの挨拶。
何もかもがいつも通り進行していたが、一つだけいつもと違う部分がある。
前から二列目の教卓のすぐ前の席、碇シンジの席が空白なのである。
「・・・どうしたのかな碇君」
「パイロットだって騒がれるのが嫌だったんじゃない?」
「じゃあミキが悪いよ、一番話してたじゃん」
「なによー、私のせい?」
碇シンジが綾波レイに連れられて、他に数人追いかけて、一人だけ戻らなくなってから早数時間。
授業はおろか休み時間に昼食に昼休みと全く姿を見せなかったのでクラスの中に疑惑が渦巻いてく。
そんな中、ケンスケが余計な一言を言った。
「そう言えば最後に見たのってトウジだよな。どうしたのアイツ?」
「知らん!」
二人にしてみればそれは単なる世間話だった。
ケンスケにしてみれば当事者がいないので確認のために、トウジは自分の頬に一撃入れた気に食わないやつのために。
だが思ったより大きいその言葉はクラスの中の誰もが聞いてしまった。
結果、碇シンジや綾波レイと異なる意味でケンスケとトウジは人の山に囲まれる。


ドドドドドドドド


「ちょっと鈴原、それどういう事よ!」
「何! 何かしたの!?」
「相田! お前も何か知ってるんだな、吐け!!」
「俺はまだ話してもいないんだぞ!! さあ、言え!!」
「吊るし上げだ!」
「「・・・」」
突然の事態に状況把握するよりも固まってしまうトウジとケンスケ。
その時、トウジの燻ったままの感情がケンスケよりも先に言葉を返させた。
「転校生!? 知らんわボケ!」
「ちょっと何よその言い方」
「知ってるんだな!? 知ってるんだな!?」
「鈴原が怒鳴るときは後ろめたい事があるときだ!!」
「やっぱり吊るし上げだ!」


「知らんもんは知らんのや!!」


出来るだけ大きく出した声は教室の中に一瞬だけ沈黙を落とした。
だからこそ、その言葉は小さい声のはずなのに誰の耳にも届いてしまう。
「あ、碇君だ」
それは日誌を書き終わり。ちょうど外を向いていたヒカリの声だった。
「「「「なに〜〜〜〜!!」」」」
一斉に人の山は窓に詰め寄る。
そこには校門を出て道路を歩いている碇シンジの姿があった。
「ほ、本当だ」
「嘘〜もう帰っちゃっうの?」
「あーん。話せるのは明日か」
「ちいっ!」
思い思いの言葉がクラスの中に響き渡り、全員が帰宅するムードになってきた。
その中でトウジは苛立ち、ケンスケは不穏な事を考えながら周りを見ていたことに誰も気が付かない。





綾波レイは手ぶらで帰った碇シンジのバッグが机の横に引っ掛けてあるのを見たが、何もせずに教室を出て行った。