生誕と生殺に福音を

第六話
「渇望するモノ」

◆――――ある二人の会話



「僕は強さなんかいらないけど無敵になりたいんだ」
「何故?」
「最強って言うのは『最も強い』って意味でしょ? つまり幾ら強大な力があっても敵がいるってことなんだよ」
「そうね」
「でも無敵は『敵が無い』でしょ? 力なんか無くても一番平和だと思うんだ」
「なれなかったの?」
「なれなかったよ」
「何故?」
「だって・・・・・・」






「無敵だったら僕達、殺されなかったよ・・・・・・・・



◆――――ネルフ本部、初号機修復作業



頭部装甲が剥がれて人間で言う肉の部分がむき出しになった初号機には巨大な包帯が巻かれていた。
これは装甲をつける前の換装作業の一つなのだが、顔に大怪我を負ったようにも見えるので痛々しい。
いつもの白衣姿のリツコは手に持った修復作業手順書と初号機の様子をアンビリカルブリッジから見比べて順調を確認する。
予定では一時間後に別の場所で技術部が作った予備の頭部装甲と入れ替えることになるので、一息がつける時間でもあった。
「今日も忙しくなりそうね」
ポツリと言うのとほぼ同じ頃、リツコの耳は誰かが走って近づいてくる音を聞いた。
作業員の誰かが急ぎの報告でも上げに来たのかと思いながら、音のする方向を向いてみると碇シンジがこっちに向かってきている。
「あら?」
予想外の来訪者にリツコが驚いていると、碇シンジはもうリツコの傍まで到達していた。
「赤木さん!」
よっぽど慌てているのか詰め寄って話すその仕草は、これまでの人との距離感を無くしている。
何かに突き動かされているのは明白なので、リツコはやんわりと対応した。
「どうかしたのシンジ君? 今日は予定らしい予定はない筈だけど」
「その予定なんですけど工ヴァの訓練ばかりで僕の訓練って無いですよね?」
「え? ええ、エヴァについてはまだ判らない事が沢山あるから出来るだけデータを取っておこうって配慮なんだけど。それがどうかしたの?」

「予定に僕の戦闘訓練を加えてもらえませんか?」

リツコはその言葉を聞いて考えてもう一度考えて理解した。
だが言葉の意味は理解する事ができただけで、何故そんな事を言い出すのかが判らずにリツコは問うた。
「いきなり言われても難しいけど・・・何かあったの?」
「実はここって判り難い作りになってるから今日は散歩しながら一通り回ってみようって思ったんです」
その言葉が本心かどうかは別にして、気が効いた心掛けだとリツコは思った。
「色々歩いてたんですけど、さっき黒いスーツ来た男の人に言われたんです『お前は弱い』って」
「え?」
「それで僕考えたんです。工ヴァって僕の考えてる事をそのまま実行するんですよね? だったら僕が強くなればエヴァも強くなれるんじゃないかって」
「確かに格闘戦における動きは知らないより知っておいた方が良いけど・・・エヴァには人には出来ない動きも容易くできるようになってるから、逆に弱くなっちゃう可能性もあるのよ? 戦闘訓練ならエヴァに乗った状態が良いと恩うわ」
「でもエヴァの相手っています?」
「う・・・」
リツコはそこで言葉に詰まってしまう。
ネルフ本部内ではエヴァの訓練施設こそあるが、それはシミュレータやバーチャルを用いた架空の訓練に過ぎない。
現実に実物大でエヴァの相手を出来るモノは使徒を除けばエヴァしかいない。
三体確認されている、零号機・初号機・弐号機の内、零号機は現在凍結中で弐号機はドイツにある。
だから碇シンジの質問に対しては『今はいない』以外に答えることは出来ないのが現実。
「・・・今はいないわ、それが出来るとしたら凍結中の等号機が起動するか弐号機がこっちに来ないと無理ね」
「だったら」
「戦闘訓練・・・はメリットの方が多いと言わざろうえないわ」
子供に言い負かされたような気持ちでリツコは渋々言う。
「じゃあこれからの予定に入れてくれ下さい」
「・・・善処はするけどネルフとしてはエヴァのデータの方が重要なの、あんまり期待はしないでね」
辛うじてどうとでも取れる対処をするリツコ。
碇シンジはそれと対照的にこれまで見たこともない嬉しそうな顔を浮かべるが、すぐに静まって苦々しい顔をする。
何やら葛藤があるのだと思ったリツコはそれ以上話すと碇シンジが気の毒になりそうだったので、視線を初号機に移して強引に話を終わらせた。
その仕草で話が終わりだと悟った碇シンジもケイジから歩いて出て行く。
リツコはその後姿を見ながら増えた仕事にため息を一つ付いた。



(誰よシンジ君に『弱い』だなんて発破かけたのは? 黒いスーツ? まさかミサトの変装じゃないでしょうね)



◆――――同日、夜間、司令室



床と天井に10個の円と22本の径からなる力バラの思想を構造化した図式『セフィロトの樹』が黒地に白で措かれた部屋。
個人で持つには広すぎるそこにゲンドウ、冬月、リツコの三人が居た。
「サードチルドレンからの直々の抗議か。碇、お前の息子は思ったより骨があるかも知れんな」
「副司令、すでにご報告にもあげましたがサードチルドレンは”慣れた”相手にのみ喋りますので、きっかけがなければむしろ内向的ではないかと」
「どうでもいいことだ」
思い思いの言葉を発端に会話は切り出される。
ゲンドウは碇シンジに対しては知った事かで通し、冬月は珍しいものを見るように考えている。
リツコはまだ答えを出しておらず、目で見たことだけを淡々と告げた。
「本題になりますが彼の戦闘訓練を予定に組み込みますか?」
「MAGIはチルドレンが戦闘訓練を行なう場合の戦力増強について何と言ってる?」
「賛成二、条件付反対が一で賛成です。ただし訓練内容を吟味した場合、条件付反対が条件付賛成一になって満場一致で賛成になります」
否定の条件を見つけることすら困難な結果を出されて疑問を言った冬月もこれにはロを塞いだ。
少なくとも平時においてはスーパーコンピューターMAGI以上に効率的な答えを出せるものはネルフにはいないのも理由の一つだから。
「反対する理由は無い、許可する。訓練内容を変更しろ」
「わかりました」
冬月の後釜を取る形でゲンドウはリツコに命令をする。
リツコも冬月もそのやり取りに慣れているのか、それを追求する事はない。
そこで確認のような短い話し合いが終わると思われたが、許可が出た事でリツコが最後の確認事項を言葉にする。
「訓練教官としてMAGIが提示した人選なのですが」
「任せる」
「はい」
この時、ゲンドウはそれが誰なのか知らなかった.
ただし知っていても同じ言葉を言った可能性は非常に高い。



◆――――同日、司令室での話し合いより四時間前、保安部



「馬鹿野郎! 護衛対象に精神的圧力かけてどうするんだお前は!!」
「処罰は覚悟の上です、ですが自分は言わずにはいられませんでした」
「子供かお前は!! それ位自制しろ!!」
保安部のトップと、碇シンジにあわや鉄拳をくらわせそうになった男は一対一で対峠していた。
二人とも身長が同じくらいなので叱責してるのか睨みあっているのかわかり辛く、両方とも黒いサングラスで目を覆っているので更に判りづらい。
「とにかくお前みたいなのを護衛任務に付かせる訳にはいかん! しばらくチームから外して休みをくれてやるから頭を冷やせ!」
「処分はそれだけですか?」
「こと対人戦闘に関してならお前は保安部でもトップクラスだ、無くすには惜しい人材だと自覚しろ」
「判りました」
それだけの会話で、言葉通り男は今日から二週間ほど休みを取る事が即座に決定した。
だがその決定は五時間後に新しい辞令が降りて取り消されることになる。
サードチルドレンの戦闘訓練教官と言う新しい任務の為に。



◆――――同日、深夜、碇シンジの場合



薄暗い自分の部屋の中で碇シンジはベットに横たわりながら天井を見上げていた。
染み一つ無い真っ白い天井を見て思うことは昔と今のこと。

何時からだろう?
気が付けば力を欲していた。
縮こまって、震えて、誰も信じられなくて一人でいた。
浴びせられる罵声、暴力にこそならなかったがそこに合ったのは孤独。
でも何かを壊したかった訳でも、何かに成りたかった訳でもない。
ただ漠然と輪の中に入りたかった。
誰かの傍にいたかった。
捨てられたくなかった。
でもシンジが碇シンジを捨てる・・・・・・・・・・・・
碇シンジを掴みあげる手は自分を殺す手。
恐れが体の中を蝕んで嫌な気持ちになる。
それでもずっと一人で耐えていた。


だから力を欲しがった。


転換期と呼べるものが何かはわからない。
ただ漠然と痛いのは嫌だからだったかもしれない。
傷つけられるのが嫌だから傷つければいいと思ったのかもしれない。
答えは判らない。


あるのは力への欲求。


誰にも屈せず、誰をも上回る強大な力。
でも高々普通の中学生が出来る事と言えば筋力トレーニングと勉強ぐらい。
生来の無い体力が普通より少し上回る程度まで向上してもそれは求める力では無い。
多少勉強して学年トップクラスまで成績を引き上げても大人はもっと先を知っている、これも求める力では無い。

”ちから”
”力”
”チカラ”
”血から”
でも嫌われたくない。
力も欲しい。
嫌われたくもない。

でも現実はどちらも手に入らない。





エヴァンゲリオン。
究極の人型汎用決戦兵器。
人造人間。
最初は何が何だか判らず、父さんに対抗するために乗った。
悔しかった。
だから壊れても良かったって思った。
だけどそれは力だった。
強力で。
強靭で。
ただ強く。
大きく。
これまで感じた事もない強大な力。

嬉しかった。
例え与えられたものでも、それは長く追い求めた力だった。
嬉しくて面白くて暖かくて自分じゃないみたいな感覚。
だけど降りたら消えた。

あれにもっと乗っていたい。
あれをもっと使いたい。
あれを使って力を発揮したい。
倒すべき相手は敵。
それにあれを使うと僕は輪に入れる。
喜んでくれる。
一緒に居てくれる。
だからぼくはあれに乗る。



だけど『弱い』って言われた。
人類なんて知らない。
僕に優しくしてくれないなら皆死んじゃえ。
でも一緒に居てくれるなら皆生きて。
”弱い”と一緒に居てくれない。
皆死んじゃう。
だったら僕は強くなりたい。
”力”を奮える力が欲しい。

怖い



嫌だ

欲しい

痛い

戦い

辛い





僕は強くなりたい。

碇シンジはもやもやしてごちゃごちゃする思考にそう答えを出した。



◆――――同時刻、ネルフ系列病院



口に当てられた呼吸器は時に白く、時に透明になって確かな息の存在を示していた。
ピコン、ピコンと鳴り続ける心電図は動き続ける心臓を訴えている。
『409号室 ―――――』
暗闇の中で小さい光に照らされた少女は正味二日の眠りから目を覚ます。



うっすらと開かれた目が病院にいると言う現実を認識して瞬きを一回、二回。
何故そうなっているかが理解できない少女はとりあえず辺りを見渡す
「・・・」
目が驚愕に見開かれ、慌てながら呼吸器を外し心電図のシールを取る。
頭、胸、手、足。
順番に取り外したそれを寝ていたベットの上に投げる少女。
彼女はこれまで病院というものに無縁な生活をしていた健康優良児だった。
加えて高血圧な少女の体質は寝起きでも通常と変わらない動きを可能とする。
白い壁。
白い天井。
見たこともない機械。
そこにいる自分。
そして困惑。
「こ・・・ここはどこなんや〜〜〜」
第三新東京市、第壱小学校在籍の小学2年生『鈴原ナツミ』の叫び声は深夜の病院の中に響き渡った。



◆――――起床



碇シンジはこれまで習慣から朝のランニングを行なっていた。
時刻は朝七時から三十分、死ぬ気で走ればそれなりに体力がつくもので重宝していた。
だがそこには一人で出来る事と他人と出来るだけ関わりたいのに関わりたくない心情も重なっている。
もし誰かに師事を受けたなら、もっと効率のいい鍛え方が出来るのだが碇シンジはそれをしなかった。
結果として残ったのは筋肉がついた細身な体に少しだけ付いた持久力。
力を渇望していながら、それでもやった事が中途半端なのを自覚するしかない。


色々合って習慣のランニングが近頃行なわれていなかったので、就寝する頃『明日の朝はジオフロントの中を走ってみよう』と考えていた。
そして習慣どおりに朝の七時に自然と目が覚める――――その二時間前の午前五時に怒声によって碇シンジは叩き起こされていた。


「起きろ!!」


突然の怒鳴り声に碇シンジは布団から飛び起きる。
起きてすぐの寝惚けた頭は世界を認識する事に苦労したが、二秒後には自分の部屋の中で仁王立ちする男の姿を認識する事に成功した。
「え・・・?」
何が何だか判らず、口から出る言葉は疑問のみ。
そもそも軍用の迷彩服に体を包んで土足で部屋に潜み入る知り合いは碇シンジにはいない。
無骨な顔は見たことがない全くの知らない人物、だがどこかで会っている。
デジャヴで更に戸惑いが積み重なる碇シンジ。
だが迷いを次の言葉にする前に目の前の男の桐喝が再び碇シンジを襲う。


「何を寝惚けている! この軟弱者!!」


その声と共に目で追うのも難しい強烈なボディブローが放たれた。
「ぼっ」
布団の上で上半身を起こしただけの体勢。
加えて寝起きの意識ではガードする思考すらなく、力を抜いた体に完全に決まった一撃で碇シンジは奇妙な坤き声を出す。
目の前がチカチカして痛みよりもまず頭がぐらぐらしていく。
反射的に殴られた腹部を押さえるが、その程度では痛みは引かず消化した胃の中身が胃液と共に逆流する。
「う、ぐえ」
「姐虫のお前にもわかるように説明してやる、お前が望んだ戦闘訓練は今、この瞬間から始まった。私が訓練教官の吾妻だが、訓練中は『教官』と呼べ、判ったか?」
強い口調で今の状況が説明されるが、今の碇シンジは聞ける状態ではない。
耳は正常に言葉を音として認識し脳に吸い込まれるが、それよりも痛みのほうが勝って聞くほうに意識が持っていけない。
相手はそんな状況を知った上で続ける。

「判ったかと聞いているんだ!!」

更なる追撃を同じ場所に受けて碇シンジは悲鳴すら上げるまもなく昏倒した。
こちらを覗き込む目を見たとき『あ・・・昨日の』と薄れていく意識の中で何とか考える事が出来たがそれだけだった。



◆――――ネルフ本部、対人訓練場



床の下に強力なバネが埋め込まれた区画。
床が板で敷き詰められた区画。
真っ白い壁に遮られた広大な場所。
学校の体育館をそのまま切り取って巨大にしたような所に碇シンジは寝かされていた。
起きた時は寝巻き兼用の薄手の半袖シャツとズボンだったが、今は軍用と思わしき迷彩服に身を包んでいる。
広々とした空間に寝そべる碇シンジ。
そしてその隣には起きぬけの碇シンジを昏倒させた張本人が立っていた。
吾妻と名乗った教官はおもむろにどこからか持ってきた水が一杯入ったバケツを持ち上げ、碇シンジに向かって浴びせる。


バシャン!


よく冷えた水は顔面を満遍なく襲い、碇シンジの目が一瞬で開かれた。
「え・・・え、ええ!? えええ!?」
唐突な衝撃に慌てながら自分が今どんな状況か確かめるために辺りをきょろきょろ見渡す碇シンジ。
だが寝ているはずの自分は知らない場所にいて着ているものは全然違い、何故濡れているのかも判らない。
辛うじて横に誰かが立っているのを理解する事だけはできた。
「起きたな」
「・・・・・・」
短い一言とその顔を見て碇シンジの脳は急激に働き出す。
殴られた自分。
言われた言葉。
今の状況。
あくまで何となくそうではないかと言う予想でしかないが、碇シンジは自分の置かれている状況を把握する。
これが『訓練』なのだと。
「まだ寝惚けているのか?」


ドガンッ!


今度は教官の足が碇シンジの肩を蹴り抜く。
咄嗟にガードする芸当は出来ず、筋肉を硬直させて威力を少しだけ軽減させたお陰か昏倒はしなかった。
だがその代わりに三メートルほど床と強烈な抱擁をするはめになる。
碇シンジの体のあちこちが痛いと叫んでいる。
また薄れそうな意識を必死に現実に繋ぎとめて顔をあげて教官を睨んだ。
「戦闘訓練はお前が望んだものだ、そして『戦闘』とは攻撃し攻撃され痛みが伴うもの。お前がどんな偶像を抱いたか俺は知らんが、これが純然たるリアルだ」
そんな睨みなどどこ吹く風で教官は碇シンジの目を真っ直ぐ見て言う。
堂々と見つめ返すその仕草に、碇シンジはさっき昏倒する前に思った事を思い出す。
「あなたは・・・昨日の」
「ん? 俺が昨日お前に弱いと言った事を言っているのならそれは単なる事実だ。それとも『何であなたが僕の訓練教官なの?』などとどうでもいい事を言うつもりか? お前は望み、ネルフは叶え、保安部員から俺が摘発され今がある。そんな過去がこれからやる事に何の関係がある? 『弱いままでいたくない』から望んだものを切り捨てるか? その瞬間お前は負け犬だ」
「・・・」
「違うと言うのならば行動で示せ、お前は戦術家でも詐欺師でも話術師でもない。言葉での戦闘はお前程度には出来はしない。ならば立て! 立って腕を振るい体を動かして足を使い動け!! 動かなければ負け、勝たなければ負け、最後には死ぬ。それが嫌なら動け」
教官の言葉に払拭された訳ではないが、何かをしなければいけないと言う意識が碇シンジの中に生まれる。

強くなりたい。

それがどんな道を選べばたどり着ける出口なのかは判らない。
今この瞬間は動かなければ何も始まらないことだけは判る。
だからこそ碇シンジは立ち上がろうとする。
だが腹部への二発の攻撃の残滓と肩口を蹴られた攻撃は体のあちこちを痺れさせていた。
痛みは少しずつ引いていたが体を動かそうとしても動かない。

うごけ
動け
ウゴケ

必死で体に命令を出して、震える手を誤魔化しながら立ち上がる。
急いだはずなのにかかった時間はゆうに十秒近い。
それを見届けた教官は蹴った位置から一歩も動かずに言った。
「お前は素人で姐虫でダニだ、しばらく手加減して首から下だけ死なない程度に攻撃してやるからありがたく思え、判ったか虫けら!」
「・・・」
何か言い返そうとしても言葉が出ない。
何故なら教官の言葉を認めている自分が碇シンジの中にいる。
悔しいと思うのに声が出ない。
哀しいと思うのに声が出ない。
ただ幌む事しかできない。
「返事はどうした!」
「・・・はい」
結局、搾り出した声は今にも消えそうな一言だけだった。



「殴られる痛みを知ったなら殴る痛みを知れ、とりあえず俺を一発殴ってみろ」
情けない姿ばかり晒す碇シンジに教官は何も無かったように言う。
内心『そんな無駄な時間は無い』と思ってそうだが、最初の出会いから考えて友好を暖めたい相手でもないので碇シンジは何も聞かない。
言葉の意味を理解して、言われるまま碇シンジが知る見よう見まねのファイティングポーズをとる。
足の位置は開いただけですぐに攻撃に移る事ができない、両手を前に構えただけのポーズ。
それでも右手を大きく後ろに振りかぶり左手を引くと同時に前に出す。


ドンッ!


碇シンジと教官の背丈を考慮に入れて、攻撃は一番殴りやすかった位置に。拳は肋骨の下辺りに激突する。
肉と肉がぶつかり合う音が少しだけ鳴ったがそれで終わり。
教官は微動だにせずにただ碇シンジを見ていた。
「・・・・・・もう何発か打ってみろ」

ドスッ!
ドスッ!
ドスッ!


何回かやれば肉を殴る気色悪さにも慣れていく。
初めは『殴りたくない』等と考えていたが、いつしか感覚が麻痔して左手も殴る手に加えていた。
右手を左手で作った拳を交互に教官を叩きつける碇シンジ。
数えて20発ほど教官に打ったところで、碇シンジのロから荒い息が漏れる。
「はぁ〜はぁ〜はぁ〜」
殴り続けることがどれだけ疲れるか碇シンジは知らなかった。
殴っても相手に効いていないと知ったときに感じる精神的な疲れを碇シンジは知らなかった。
「ふむ・・・基礎体力は多少付いているが多少の枠を抜けてはいない。柔軟性も無ければ動きも鈍い、訓練以前に気構えも無いとは虫けらにも劣る存在だな」
「・・・」
教官の声に碇シンジは何も返せず、殴る拳を止める事しかできない。
「戦闘において準備時間があると思うな。闘いとはいついかなる時でも始まる可能性がある。エヴァのパイロットであるお前には敵が来ればすぐに出撃しなければならない義務もある、だから常に戦えるように考えておけ。それと基礎体力が無いお前用の最初の訓練メニューは前屈と柔軟後の訓練場の外周百週だ、体力が無ければ何も出来ない虫けらのお前にはぴったりだろう」

”虫けら”
”弱い”
”素人”
”姐虫”
”ダニ”

言いたい放題言われても碇シンジはそれが事実だと思い知らされたから何も返せない。
起こされるために使われた水と流れた汗は目から流れる涙のようにも見えた。
まだ痛む体がどれだけ自身を貧弱か思い知らされる。
何も言わずに柔軟運動をしていると不意に泣き出したくなる。

(でも強くなりたい)

教官に師事する事で強くなれるかは判らない。
戦闘訓練を望んだにも拘らずそれが自分の求める力なのか碇シンジは判れない。
自分で自分が判らなくなる。

(強くなりたい)

柔軟を終え、言われたとおり『外周百週』をやりだした碇シンジはまた考える。

(強く)

まるで呪いの様に、囚われ続けるその思いに経って碇シンジは訓練場の壁付近を走った。
「そう言えばこの服・・・、いきなり色々合って考える暇も無かったけど、あの人が着替えさせたのかな?」
そんな事を呟きながら碇シンジは走った。
力を求めて。